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邯鄲淳(かんたんじゅん)は高名な儒学者であり書家

2022年4月9日

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名前邯鄲淳(かんたんじゅん) 字:子叔 別名:竺
生没年132年ー没年不明(220年以降)
時代後漢末期、三国志
勢力劉表劉琮曹操→曹植→曹丕
コメント書家、儒学において高い評価をされている
画像三国志(コーエーテクモゲームス

邯鄲淳は豫州潁川郡の出身であり儒学者及び書家として、高い評価を得ていた人物です。

邯鄲淳が著した書物の中には「笑話」があり、曹植とも意気投合した話も残っています。

邯鄲淳の師は曹喜であり、弟子には胡昭がいます。

正史三国志の管寧伝によれば「胡昭は隷書が巧みであり鍾繇、邯鄲淳、衛覬、韋誕らと並び名声があった。」とあります。

これを見ると邯鄲淳は隷書が巧みだった事は明らかですが、邯鄲淳の書家としての実力は、隷書だけに留まらなかった様です。

王朗伝に残された魏略によれば「董遇・賈洪・邯鄲淳・薛夏・隗禧・蘇林・楽詳ら7人が儒学の宗家としている」とあり儒学者としても優れていたのでしょう。

劉劭伝にも、似た様な記載がされています。

王粲伝の記述によれば邯鄲淳は繁欽、路粋、丁儀、丁廙、楊修、荀緯らと同様に、文学に優れていたが孔融、王粲らを始めとする建安の七子には入らないとあります。

それを考えると邯鄲淳は建安七士と呼ばれた孔融、王粲、劉楨、陳琳、阮瑀、徐幹、応瑒らとは毛色が違うのでしょう。

荊州に赴く

邯鄲淳は初平年間に荊州に赴いたとあります。

初平年間は西暦190年から193年までであり、袁紹と盟主とする反董卓連合が結成されたり、汝南袁氏の袁紹派と袁術派で争っていた時代でもあります。

長安に遷都した董卓呂布や王允の手に掛かって亡くなるなど、北方は荒れている状態でした。

こうした中で文学者である邯鄲淳は劉表がいて、比較的安定していた荊州に赴いたのでしょう。

劉表は儒学に関しても熱心であった話もあり、邯鄲淳を保護した様にも感じました。

劉表は西暦208年に亡くなり、劉琮が曹操に降伏すると、曹操は邯鄲淳の高名を耳にしており、自ら召し出す事になります。

曹操は邯鄲淳に会うと敬意を示しました。

曹植と意気投合する

後に曹操の後継者となる曹丕は、優れた儒学者を求めており、邯鄲淳の話も耳にしていたわけです。

曹丕は邯鄲淳を文学の官属の中に入れたいと考えていました。

しかし、曹丕の弟である曹植もまた邯鄲淳を求めます。

曹操は邯鄲淳を曹植の元に行かせる様に取り計らい、曹植は多いに喜んだ話があります。

曹植は邯鄲淳と会う事になりますが、直ぐに話しかける事はしませんでした。

曹植と邯鄲淳が面会した時は、夏の暑い時期であり、曹植は側の者に水を用意させ体を洗い出します。

身体が洗い終えると、おしろいをつけて肌脱ぎとなり、異民族の踊りを踊って見せます。

曹植の酔狂とも言える行動は収まらず、剣をお手玉の様に芸をしてみせたり、役者の真似をし終わると、次の様の述べました。

曹植「邯鄲淳先生。いかがでしたでしょうか」

曹植は言い終わると、すぐに正装に着替え威厳を整え邯鄲淳と話をする事になります。

邯鄲淳と曹植は天地創造の話をしたり、伏羲以来の賢人や聖者、名臣などを語りあったとあります。

さらには評論を行い文章、賦など文学についても話し、多いに意気投合しました。

この時の邯鄲淳は自分の本領を発揮できたのか、座中の者で邯鄲淳に対抗できる者はいなかったとあります。

邯鄲淳は曹植の事を高く評価し「天の人」と述べています。

曹植は芸術肌の人間であり、邯鄲淳と通じる部分が多くあったのでしょう。

曹植を絶賛

邯鄲淳が曹植に仕えた頃は、曹操はまだ自分の後継者を決めてはいませんでした。

曹操は長男の曹昂や最も優れた能力を持っていたとされる曹沖を失い、後継者をまだ指名していなかったわけです。

曹操は名士社会との軋轢もあったのか、文学を得意とする曹植を後継者にしようとも考える様になります。

さらに、邯鄲淳も曹植の事を称揚し、曹操も曹植に心が傾きました。

曹丕にしてみれば、邯鄲淳が曹植を褒めるのは面白くなかったはずです。

曹操は曹植を後継者にしようとも考えましたが、最後は賈詡の言葉もあり、後継者には曹丕を指名しました。

博士給事中に任命される

曹操が亡くなると、曹丕が後継者となり、献帝から禅譲により皇帝として即位しました。

曹丕が皇帝になると曹植は冷遇され、邯鄲淳は曹植の元から去らねばならなくなります。

曹丕は邯鄲淳が後継者争いで、曹植を推していた事が気に入らなかったわけですが、邯鄲淳の才能も認めていたわけです。

曹丕は邯鄲淳を博士給事中に任命しました。

邯鄲淳は曹丕に「投壺賦」千余字を作り献上した話があります。

曹丕も高い教養を持っており投壺賦を評価し、帛千匹を下賜しました。

曹丕は曹植を親しくしている邯鄲淳に対し、良い感情は抱いていなかったようですが、邯鄲淳の才能は多いに評価したのでしょう。

邯鄲淳の凄さ

邯鄲淳の師は曹喜だったとあります。

篆書に関していえば、始皇帝時代の李斯が有名ですが、曹喜も李斯に負けない位の技術があった事が伝わっています。

董卓に仕え王粲を高く評価した蔡邕も、曹喜の文字を取り入れた記録が残っています。

邯鄲淳は曹喜を師とすると「ほぼその妙技を極めた」とあり、邯鄲淳もかなり有能だった事が分かるはずです。

蔡邕も曹喜の書法を取り入れはしましたが、「精密にしてのびのびとした条理あるところは邯鄲淳に及ばなかった」とあります。

邯鄲淳は書断によれば、古文、小篆、大篆、八分、隷書で最上位の妙品に挙げられ最高級の評価をされています。

さらに、邯鄲淳は秘蔵とされた科斗書と呼ばれる古文を、魏になってから初めて伝えられたとも言われており、邯鄲淳の凄さが分かる気がします。

尚、人徳者でもあり高い評価をされている胡昭の師は張芝と邯鄲淳だったと伝わっています。

因みに、曹操や蔡瑁と因縁の関係となった梁鵠は「師宜官は大字を書き、邯鄲淳は小字を書いた。邯鄲淳は王次仲そのものの書法とした」とする言葉も残しています。

邯鄲淳の能力値

三国志14統率5武力3知力66政治52魅力64

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

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