太史慈と言えば、小覇王孫策と一騎打ちをした事ばかりがピックアップされている感じがあります。
しかし、史実の太史慈を見ると黄巾賊に囲まれた孔融を救ったり、かなりの武勇を誇っていた事が分かります。
三国志演義では一騎打ちが大量にありますが、正史三国志では殆ど一騎打ちがありません。
しかし、孫策と太史慈は正史三国志にも一騎打ちをした記録があるわけです。
孫策も太史慈も自分の武勇に自信があったからこそ、本当に一騎打ちになってしまったのでしょう。
尚、三国志演義での太史慈は、合肥の戦いで張遼の計略に掛かり、大量の矢を浴びてしまい陸遜や董襲に救出されますが、矢傷により亡くなった事になっています。
しかし、正史三国志には太史慈が張遼の計略に、掛かった記述はなく西暦206年に病死した記録があります。
太史慈が最後に言った言葉が残っており、太史慈は皇帝になる野心があったとも考えられています。
史実の太史慈がどの様な人物だったのか解説します。
尚、正史三国志で太史慈は、呉書の劉繇太史慈士燮伝に下記の人物と共に掲載されています。
相手をペテンにかけて地元にいられなくなる
三国志演義にはない正史三国志だけにある太史慈が機転を利かしたエピソードを紹介します。
太史慈・初めてのお遣い
太史慈は成人になると、東莱郡の役人になります。
ある時、東莱郡と青洲の間で揉め事が起りました。
郡と州の揉め事が解決されないため、判断を朝廷に任せる事にしたわけです。
この当時ですが、先に上奏した方が有利に事を進められる事が大半だったようです。
しかし、州の役人の方が先手を打ち、上奏書を先に都へ使いに出していました。
郡の方は、遅れを取っている事に気が付きますが、上奏書を持つ使者を太史慈に決定します。
太史慈の役目としては、州の使者を追い越して、自分が書類を提出しなければいけません。
もちろん、チンタラ移動していては間に合わなくなるので、夜通し走った事でしょう。
もちろん、馬に乗ったりしたと思いますが。
ここにおいて、【太史慈の初めてのお遣い】が始まりました。
相手の上奏文を破り捨てる
太史慈は必死で走り、州の役人に追いつく事に成功します。
しかし、追いついた場所が提出する役所の前だったわけです。
ここで州の役人を抜かさないと、太史慈は使者を全うする事が出来ません
そこで太史慈は、州側の役人に話しかけます。
太史慈「上奏文は間違いがあると受け付けてくれません。よく見直した方がいいですよ」
州側の役人「そうか」
州側の役人は心配になったのか、上奏文を取り出して確認しようとします。
すると、太史慈は上奏文を取り上げて、ビリビリに破いてしまいました。
もちろん、州側の役人は激怒するわけです。
しかし、太史慈は州側の役人を物陰に連れて行きます。
太史慈「私も上奏文を破り捨てるのはやり過ぎたと思っている。しかし、この状況だと破った私だけが処分されるとは思われない。あなた(州の役人)も処刑されるはずだ。ここは二人とも逃亡した方がよい。」
ここにきて、州側の役人は太史慈が郡側の役人だと気が付いたはずです。
そして、二人で逃亡する事にします。
しかし、街の門を出たところで、自分は用事があるといい別れてしまいます。
そして、自分は引き返して郡の上奏文をお役所に届ける事に成功しました。
つまり、相手をペテンにかけて、太史慈は任務を達成した事になります。
尚、この後、州側の役人がどうなったかは記録に残っていません。
ここだけ、見ると太史慈の要領の良さが分かるかと思いますが、話はこれで終わりません。
故郷を去らなければならなくなる
太史慈が先に上奏文を提出する事で、郡の方に有利な判決が出ました。
しかし、州側としては、上奏文が提出されていない事に気が付いたのでしょう。
さらに、郡側の使者が太史慈だった事を考えると、「あいつ何かやったんだろう?」と疑いの目で見られてしまうわけです。
結局、太史慈は州側から嫌がらせがあったのか、身の危険を感じて郡の役人を辞めなければいけなくなってしまいます。
そして、故郷を去る事になるわけです。
つまり、ペテン事件の勝利が後の敗北を招く事になりました。
人生ではよくある事ですね・・・。
ちなみに、この時に母親は故郷に残したまま、太史慈は去ったようです。
こういうペテン師の様な事をやってしまうと、評価する人もいれば酷評する人もいるわけです。
実際に、やられた州側の人間は激怒しました。
太史慈の上奏文破り事件が孔融の耳に入る事になります。
しかし、孔子の子孫である孔融は太史慈の事を評価します。
孔融は太史慈が優れた人物だと思い、太史慈の母親に贈り物をして生活が困らないように面倒をみました。
これが後に、孔融がピンチの時に太史慈に救われる事になります。
尚、この様な太史慈が機転を利かせた話は、上奏文を破り捨てた事だけではありません。
三国志のゲームだと太史慈は知力系の能力値が低かったりしますが、実際の太史慈は機転もかなり利かせる事が出来ます。
太史慈が圧倒的な武勇で孔融を救う
太史慈は恩がある北海の相である孔融を救った話があります。
ここでも太史慈は機転を利かし、圧倒的な武勇で孔融を救う事になります。
太史慈・故郷に帰る
太史慈は、故郷にいられなくなり逃亡したのですが、何を思ったのか突然、家に帰ってきました。
しかし、太史慈の母親は不機嫌そのものです。
太史慈が不機嫌の訳を聞くと、留守の間に孔融が世話をしてれたと明かします。
世話になった孔融が黄巾賊の残党である管亥に、都昌で包囲され危機に陥っていると聞かされました。
これを聞き、太史慈は孔融を助けるために、援軍として行きます。
この時の太史慈は仕官しているわけでもなく、部下の兵士もいなかった事で、自分一人で援軍に向かったわけです。
優柔不断な孔融
太史慈は都昌の孔融を助けに行くと、黄巾賊の管亥の都昌包囲が緩かったせいか、やすやすと城内に入る事が出来ました。
それか、太史慈の事ですから、黄色の布でも用意しておいて、頭に巻いて包囲を掻い潜ったのかも知れません。
孔融の城に入ると、孔融は太史慈に一目置いていただけあり、大いに喜んだとされています。
太史慈は、管亥の包囲が緩いから夜襲を掛けて、敵の不意を突き全滅させようと進言します。
しかし、孔融は首を縦に振りません。
孔融は武人ではないので、戦場に突っ込んで行くような事はやりたく無かった可能性もあります。
そして、何もせずに日数だけが立ち、日増しに黄巾賊の包囲が厳重になっていきます。
こうなると、孔融も「援軍を呼ぼう」となるわけです。
太史慈にして見れば、「包囲が厳重になる前に言ってくれ!」という所だったのかも知れません。
孔融は平原国の相である劉備に援軍を依頼する事にします。
しかし、管亥率いる黄巾賊の包囲を破らなければならなくなります。
太史慈・敵の虚を突き包囲網を破る
劉備に誰が援軍を頼みに行くか人選が行われますが、立候補する人が太史慈しかいませんでした。
そこで、太史慈が黄巾賊の包囲網を破りに行く事になります。
しかし、敵の包囲網は完成しており、破るのは至難の業となっている状態です。
そこで、太史慈は奇策を用いる事にします。
毎朝、3騎で城から外に出ます。
そして、的を部下に持たせて、弓矢の練習をします。
ちなみに、太史慈は弓矢の名手で100発100中の腕前だったそうです。
黄巾賊も最初のうちは、警戒していましたが、毎日、見ていると段々と油断してきます。
太史慈は黄巾賊が油断したところを見定めると、馬にまたがりあっという間に、敵陣を駆け抜けて包囲網を突破しました。
もちろん、黄巾賊は呆気に取られますが、もちろん、我に返り太史慈を討とうとします。
しかし、太史慈は馬を見事に操り、得意の弓で敵を倒したのでしょう。
これにより、包囲網を抜け、劉備の元までたどり付きます。
そこで、劉備は太史慈に3000の兵士を与えています。
3000の兵で太史慈が帰還すると、黄巾賊の大将である管亥は包囲を解くように命令し、一戦もせずに都昌の包囲は解かれました。
これにより、太史慈は見事に任務を達成したわけです。
この時の孔融は太史慈の事を「年は若いが貴方は私の友人だ」と述べ、感謝し太史慈を重用した話があります。
三國志演義では黄巾賊の大将である管亥を討ったのは関羽になっていますが、実際に兵を率いたのは太史慈であり、管亥を退散させたのは太史慈の手柄だと言えるでしょう。
太史慈の武勇は凄いと思う
太史慈が黄巾賊に見せた城の囲みを突破する、武勇は凄まじいと感じました。
敵がいくら油断していたと言えども、敵陣に一騎で突っ込んで行き、敵をなぎ倒し包囲網を抜けたわけです。
普通の武将であれば、こんな事は出来ないでしょう。
さらに、追手もあったと思いますし、それを振り切れるのは、馬さばきも常人を超えたレベルだったのが分かります。
このエピソードは、太史慈の圧倒的な武力を指すような出来事だと言えるでしょう。
案外、三国志の武勇を考えると呂布とか張飛、関羽、趙雲などが頭に浮かぶ人も多いかも知れませんが、実際には太史慈がナンバーワンだった可能性すらあります。
太史慈が孔融に仕えなかった理由
太史慈は孔融を救った後は、故郷に戻っています。
もちろん、故郷に母親を残していたわけですが、孔融に使える事はしませんでした。
なぜ、孔融に使えなかったかですが、資料が残っていないので分かりません。
しかし、孔融は鄭玄などを推挙したりの実績はありますが、どちらかと言えば学者肌で仕えにくい人だったからではないでしょうか?
さらに、変わった人材を好み、実力者を排除したともあります。
太史慈を気に入ったのも、ペテン事件を知ってたからですし、変わった人が好きなのでしょう。
さらに、黄巾賊に囲まれた時の対応などを見て、太史慈も仕える気がなくなったのかも知れません。
後に孔融は袁譚(袁紹の長子)に攻められた時は、戦わずに逃亡をしていますし、曹操の下では批判を繰り返したために処刑されています。
禰衡を高く評価するなど、性格上に難点があったため、太史慈も孔融に仕える気が無くなったのでしょう。
尚、太史慈のやり方を見ていると、敵を油断させたりシーンによって上手く対応している事が分かります。
ペテン事件などは、褒められる事ではないのですが、太史慈は非常に機転が利く人物です。
太史慈と孫策の戦い
太史慈は、孔融を救った後に、故郷である青州を離れています。青洲は黄巾賊が活発に活動しすぎていて、治安が悪かったようです。
そこで、劉繇(りゅうよう)を頼る事にしました。しかし、劉繇は太史慈を重用しなかった話があります。
劉繇の元で与えられた役目は斥候(偵察)でした。
孫策に偶然出くわす
劉繇ですが、三国志演義などですと、太史慈を重用しなかったりと、孫策のやられ役なのですが、劉繇は史実だと粘り強く頑張っているところも見受けられます。
しかし、太史慈を重用しなかったのは本当の事のようです。
その当時、劉繇は袁術に圧迫されたり、袁術から独立したい孫策と戦ったりしています。
孫策と戦う時に、偵察部隊として行動していた太史慈は偶然にも孫策と出くわしてしまいます。
当時の孫策というのは、小覇王と呼ばれ圧倒的な武力と項羽にも負けない程の統率力で、江東を次々に平定していく日の出の勢いの勢力でした。
孫策は腕っぷしも自信があり、史実でも太史慈と一騎打ちを行っています。
しかし、太史慈が相手だと思わぬ苦戦を強いられます。
太史慈は馬を刺されて落馬し、孫策は兜を取られて組打ちとなりました。
組打ちと言えば、聞こえはいいですが、実際は転がり合っての殴り合いだったの可能性も高いです。
この戦いは決着が着かずにお互いが引く事になりました。
両軍の兵士が飛び出そうとしたようで、危険を感じた孫策と太史慈が引いたのでしょう。
この苦戦が孫策が太史慈の実力を認める要因となります。
その後、劉繇と孫策が戦いますが、劉繇は破れて敗走する事になります。
太史慈が丹陽太守を名乗る
劉繇が敗走すると、太史慈は別行動を取るようになります。
太史慈は勝手に丹陽の太守を名乗った話があります。
もちろん、太史慈が朝廷から丹陽太守に任命されたわけでもありませんし、自分で勝手に名乗っているだけです。
皇帝を勝手に名乗ってしまう袁術よりはましですが、詐称をしたのは太史慈も同じです。
そして、丹陽太守の名を使って兵士を終結させると、孫策に決戦を挑みます。
しかし、孫策軍は強く太史慈は破れて囚われてしまうわけです。
どの様にして敗れたのかは正史三国志にも詳細がなく、簡略な記述しかありません。
ただし、太史慈が孫策に敗れた事は間違いないでしょう。
孫策が太史慈の力量を認める
孫策は、太史慈と戦った時に、力量が分かっていました。
そのため、太史慈を捕らえましたが、自ら縄を解いています。
そして、孫策の力量の高さに感服し太史慈は孫策の配下になります。
劉繇が豫章で亡くなると、劉繇配下が彷徨い始めます。
それを太史慈が引き留めに行き、劉繇の残党を孫策陣営に引き入れる事にも活躍をしました。
この時に孫策配下の側近達は太史慈が帰って来ないと孫策に言いましたが、太史慈は約束を守り期限までに帰ってきています。
ここから先ですが、太史慈は途端に地味な存在になっていくような気がします。
孫策との一騎打ちなどが一番の晴れ舞台だった様に思えてなりません。
しかし、実際の太史慈は豫章の平定をしたりしています。
孫策の配下になってからの活躍
太史慈が孫策の配下になってからですが、劉表配下の劉磐と戦った記録があります。
劉磐って誰?と思うかも知れませんが、劉磐の従父は劉表であり、劉琦や劉琮の従兄に当たる人物です。
劉表は長沙太守に劉磐を任命し孫策も劉磐を警戒していた話が残っています。
孫策は劉磐に対抗する為、太史慈を建昌都尉に任命しています。
太史慈は劉磐の侵攻を防いだ話が残っています。
劉磐は太史慈の統治能力の高さを認め侵攻を控える様になった話があります。
この話から読み取れるのは、太史慈は剛胆で武力があるだけではなく、政治力や統治能力の高かったと言う事です。
太史慈は孫策の期待に見事に答えたと言えます。
尚、劉磐は後に黄忠と共に劉表から長沙の攸県を守備する様に任された話が残っています。
さらに、孫策が亡くなり孫権が立つと南方の鎮定に活躍しています。
赤壁の戦いの2年に前である西暦206年に、惜しくもなくなっているわけです。
三国志演義では、赤壁の戦いにも参戦していますが、史実では赤壁の戦いよりも前に亡くなっています。
劉繇が太史慈を重用しなかった理由
劉繇は太史慈を重用しなかったのですが、原因は許劭にあったようです。
尚、劉繇といえば人材を活用できずに、敗れ去った群雄に思うかも知れませんが、先に述べた様に正史では粘り強く戦っています。
ただし、劉繇は袁術とは互角でしたが、孫策が出てくると破れてしまいます。
許劭が原因
劉繇が太史慈を使わなかったのは、許劭が原因です。
許劭という名前に、見覚えがある三国志ファンは多いのではないでしょうか?
許劭は、人相を視る達人で、曹操に向かって「治世の能臣、乱世の奸雄」と評価した事で有名な人です。
許劭は洛陽辺りにいる占い師だと思っている人もいるのですが、太史慈が劉繇の下にいた頃は、許劭も劉繇と行動を共にしています。
許劭の人物批評のターゲットが太史慈になるのですが、批判的な評価をしました。
それを劉繇が気にして、太史慈を重用しなっかったわけです。
この場合は、太史慈は許劭がいる限り頑張っても評価される事はなかったでしょう。
そもそも活躍の場も与えられないわけですから・・・。
当時、太史慈は孔融を救った話が広まっていて、大将軍に任命して孫策と戦わせるプランもあったのですが、許劭を気にした劉繇によって実現しませんでした。
太史慈を大将軍にしてれば孫策に勝った?
太史慈を大将軍にしていれば、孫策に勝てたのか?ですが、こればかりは分からないとしか言いようがないでしょう。
孫策は、丹陽太守を名乗った太史慈と戦いますが、これを難なく打ち破っています。
兵力差などは分かりませんが、孫策の方が軍隊の指揮などになると一枚上手だったかも知れません。
勝敗は時の運という要素もあるので、何とも言えない部分もあるしょう。
しかし、劉繇の元に許劭がいても勝てないわけですから、許劭の言う事が全てではないと私は考えています。
許劭の言葉を劉繇が気にした理由
劉繇が許劭の言葉を気にした理由ですが、占いなどを信じていたからでしょう。
さらに、春秋左氏伝などを読んでみると、占いに反して戦い破れた人も出てきます。
そのため、「許劭の言う事を聞かずに太史慈を使って破れたら笑いものだ」と考えたのでしょう
実際に、許劭の言葉を劉繇は気にしていた記録が残っています。
ただし、許劭自身の人物鑑定は気に入った人材には、徹底的に評価しますが、評価しない人には徹底的に酷評したようです。
それが一部の人には、心に打たれるものがあり有名になったのでしょう。
太史慈は、酷評されてしまった可哀そうな部類に入ります。
何もしていないのに、嫌われてしまった可能性もあるでしょう・・・。
しかし、太史慈は劉繇には重用されませんでしたが、孫策には重用されてよかったと感じています。
あと、許劭は太史慈の上奏文破り捨て事件などを知っていたのかも知れません。
個人的な事になるのですが、自分は許劭みたいな批評家は余り好きではありません。
追記
許劭は太史慈には反対しましたが、陶謙配下から劉繇の配下になった笮融に関してはあれこれ言っていません。
笮融は、仏教徒に目を付けて寺院まで建てたりしていますが、広陵においては略奪の限りを尽くしたと史書にあります。
さらに、後の笮融の行動を見る限り、とても飼いならせるものではありません。
しかし、許劭は太史慈は批判しても、笮融は批判していません。
劉繇は太史慈を用いる事を許劭を気にして実行しなかった経緯があります。
普通に考えれば、笮融のような 掠奪も平気で出来る様な人を用いたら笑われないか気にするべきでしょう。
劉繇を許劭が惑わしたとも考えられるのです。
ちなみに、笮融は後に劉繇に対して反旗を翻しています。
許劭はせめて、三国志演義で諸葛亮が魏延に言った様に、「笮融に反骨の相」があると言って欲しかった気持ちがあります。
太史慈の最後
太史慈の最後は、正史三国志と三国志演義とでは違った最後を迎えます。
個人的に好きなのは、正史三国志の最後なのですが、この話をなぜ三国志演義の作者である羅貫中は採用しなかったのか謎です。
尚、太史慈は最後の言葉は皇帝になりたかった事を意味する事を指摘する人も多いです。
三国志演義での太史慈の最後
三国志演義だと、太史慈は赤壁の戦いでも活躍しています。
さらに、合肥の戦いにも参加しますが、そこで太史慈は最後を迎えます。
尚、日本で三国志と言えば、吉川英治さんの三国志が有名です。
吉川英治さんの三国志でも合肥の戦いで太史慈が死亡した事になっています。
合肥の戦いの時に、太史慈は夜襲を決行します。
しかし、この夜襲は敵将張遼により察知されていました。
張遼は夜襲を見越して伏兵を配置しておいたのですが、見事に太史慈は罠にはまってしまいます。
そして、矢があちこちから飛んできて、ハリネズミのようになって死んだ事になっているわけです。
太史慈は弓矢の達人であった事から、最後は弓矢で死んだ設定にしたのでしょうか?
しかし、数々の武功を建てた呉の名将のはずなのに、呆気なく死んでしまった感が強いです。
三国志演義の作者の羅貫中は、太史慈の適当っぽい所が嫌いだったのかも知れません
尚、魏の張遼なども三国志演義では戦場の傷が原因で亡くなった事になっていますが、 楽進の様に甘寧と淩統の引き立て役になってしまった人もいる事を考えれば、太史慈や張遼の扱いはまだマシなのかも知れません。
史実の太史慈の最後
陳寿の書いた三国志正史ですが、裴松之の注によれば206年に死亡した事になっています。
孫策が亡くなったのが、200年なので、太史慈が孫権にも仕えた事は間違いありません。
死期を悟った太史慈は、次のように述べたとされています。
「丈夫として世に生まれた限り、7尺の剣を帯びて、天子の階を昇るべきものを、それが果たせぬうちに、死ぬことになるのか」
太史慈の死は、病死なのか突然死なのかは記載がなくて不明ですが、さぞかし無念だったのでしょう。
まだまだ、自分はやれたと言うのが心の中にあったのかも知れません。
さらに、武勇に秀でた人だったため、健康で強靭な肉体があり自分が死ぬことを想像出来なかったのでしょう。
陳寿が著した正史三国志の最後の方が、三国志演義に比べると、死に方がカッコよく感じます。
正史の話の方が物語も盛り上がると思うのですが、なぜ三国志演義の著者である羅貫中は、太史慈の最後を奇襲が失敗しての戦死に変えてしまったのかは謎です。
尚、太史慈のお墓が1870年に江蘇省鎮江市北固山で発見されています。
太史慈の子には、太史享がいて太史慈ほどは勇猛ではありませんでしたが、統治能力に優れ山越の統治を任され尚書が呉郡太守になった話があります。
太史慈は皇帝になる野望があった?
太史慈の最後の言葉を思い出してみてください。
「丈夫として世に生まれた限り、7尺の剣を帯びて、天子の階を昇るべきものを、それが果たせぬうちに、死ぬことになるのか」
この言葉は、自分が皇帝になりたかった野望にも感じる言葉になっています。
最初見た時は、孫策や孫権の元で天下統一して高位に上りたかったのかな?とも感じました。
しかし、よく考えてみると「天子(皇帝)になりたかった」という野望の方が強いように感じます。
そのため、太史慈は最終的には、独立勢力にでもなって天下を統一したかったのかも知れません。
孫権に取っても惜しい男を無くした事でしょう。
ちなみに、三国志のゲームだと呉では武力が90を超える様な武将が少ないです。
太史慈と甘寧と周泰がかろうじて超えるかな?位のものです。
数少ない武力型の武将がここで死んでしまうのは、三国志ゲームにおいても残念でしょう。
尚、呉って初期の方はカッコいい人材が多いと思いました。
最後の暴君である孫晧の時代では考えられませんね
孫晧の代には、宮女が相撲を取るなんて事までやってしまうわけですから・・・。
太史慈の謎
太史慈は正史三国志の呉署では劉繇太史慈士燮伝に記載があります。
ここで不思議なのは、太史慈は経歴を見ると孫策の一武将になるはずです。
周瑜、魯粛、呂蒙とは毛色が違いますが、程普、黄蓋、韓当、周泰、蒋欽、甘寧、丁奉らと同じ呉書・程黄韓蒋周陳董甘凌徐潘丁伝の収録でも構わない様な気もします。
それに対し、太史慈と同じ伝に収録されている劉繇や士燮などは明らかに群雄であり孫家に対して敵対した事もあります。
それらを考慮すると、太史慈は呉の武将の中でも特別感がある様に感じるわけです。
太史慈が特別扱いされる理由ですが、孔融を救った事で群雄並みに天下に名前が鳴り響いていた説があります。
さらに、劉繇が亡くなった時には、劉繇の勢力を孫家の勢力に加えるのに多大な力を発揮しています。
それを考えると劉繇の後継者が太史慈の様にも扱われている気すらします。
正史三国志の著者である陳寿が太史慈をかなり評価していた事で群雄扱いした様にも感じました。
参考文献:ちくま学芸文庫 正史三国志