名前 | 焦矯(しょうきょう) 別名:焦征羌 |
生没年 | 不明 |
時代 | 後漢末期、三国志、三国時代?? |
コメント | 会稽の豪族 |
焦矯は正史三国志の歩隲伝に名前が登場する人物です。
歩隲伝には『焦征羌』の名前で登場しますが、呉録の注釈に、次の記述が存在します。
「焦征羌の本名は焦矯である。過去に汝南郡征羌県の令をしていた事があり、焦征羌と呼ばれたのである」
この記述から、焦征羌の本名が焦矯だと言う事が分かります。
焦矯の逸話に関しては歩隲と衛旌の性格の違いを現わす為の話として登場します。
焦矯に関しては不明な部分が多いと言えます。
会稽郡の豪族
焦矯は会稽郡の豪族であり、焦矯の食客達は我が物顔で横行していたとあります。
それらを考慮すると、焦矯は強い力を持った会稽郡の豪族だったのでしょう。
ただし、焦矯は呉の四姓と呼ばれた顧氏・陸氏・朱氏・張氏ほどの威勢はなかったはずです。
それでも、焦矯の勢力は大きく会稽の人々が、気を遣う存在だったのでしょう。
若き日の歩隲と衛旌は会稽で商売をしようとしましたが、焦矯の食客達に邪魔をされるのを恐れ、焦矯に瓜を献上した話があります。
中々会おうとしない焦矯
歩隲と衛旌は瓜を持ち、焦矯に献上しようとしますが、この時に焦矯は奥の部屋で横になっていたわけです。
さらに、焦矯は歩隲と衛旌に直ぐに会おうとはせず、長く待たせておきました。
衛旌は焦矯の態度が無礼だと語り、会わずに帰ってしまおうと歩隲に述べています。
それに対し、歩隲は次の様に述べました。
歩隲「ここにやって来たのは彼(焦矯)の勢力を恐れての事だ。
ここで帰路に着けば、焦矯の恨みを買うだけであり、下手に出たくない気持ちを示す事になるであろう」
歩隲は衛旌を宥め、焦矯が出て来るのを待つ事にしました。
長い時間が経った後に、焦矯は姿を現します。
焦矯の無礼な態度
焦矯は窓から出て来たかと思えば、自分は帳の中に座り、歩隲と衛旌には地べたに敷物を布かせ座らせます。
焦矯の態度を衛旌は不快に思いますが、歩隲は気にする素振りも見せませんでした。
さらに、焦矯は自分には豪勢な料理を用意させますが、歩隲と衛旌には小さな盆に、野菜とご飯だけの粗末な食事しか出さなかったわけです。
衛旌は焦矯の態度が無礼極まりないと感じ、食事を食べようともしませんでしたが、歩隲は全て食べてしまい腹をいっぱいにしてから、焦矯の元を去りました。
焦矯の行いに衛旌は「この様な無礼な事をされたのに、どうして耐える事が出来るのだ」と歩隲に問います。
歩隲は次の様に答えました。
歩隲「我々は貧しく身分もない。だからこそ焦矯は、我等の事を貧乏人として扱ったのである。
焦矯のした事は当然の事であり、恥じる必要もない」
焦矯の態度を無礼だと衛旌は感じたのに対し、歩隲は当然の事だと感じたわけです。
会稽の大豪族である焦矯に頭を下げに行ったのが、歩隲と衛旌が若かりし頃の姿であり、後に歩隲が陸遜の後任の丞相となり、衛旌は潘濬の話で失脚するも尚書にまで昇進しています。
焦矯は歩隲と衛旌に対し無礼な態度で接したわけですが、この二人が後に呉の孫権に重用され、呉の重臣として大抜擢されるとは思ってもみなかった事でしょう。
それを考えると、焦矯は勢力は強大であったかも知れませんが、食客が威張っているだけであり、人材を見抜く目は無かったのかも知れません。