董恢の字は休緒であり、襄陽の人だとあります。
襄陽は魏の勢力下に置かれていましたが、董恢がどの様な経緯で蜀に仕える様になったのかは分かっていません。
三国志の蜀の中では益州出身者と荊州出身者が多かったわけですが、董恢は荊州の出身だった事になります。
董恢は蜀書・董允伝に実績が記載されていますが、董允との関係は不明です。
董恢と董允は同じ「董姓」ではありますが、親戚だったなどの記述はありません。
董恢は董允に高く評価されていた逸話があり、費禕の副官として呉に行った時には、酔った孫権の難問に対し、見事な返答をしたわけです。
諸葛亮も董恢を評価し、丞相府の属官とし、巴郡の太守としました。
董允に認められる
董允は尚書令の費禕や中典軍の胡済らと、外出し遊行しようと準備をします。
董允の準備が終わった頃に、董恢が訪ねて来ました。
この時に董恢は年が若く郎中だったと伝わっています。
董恢は董允に敬意を表しにやってきたわけですが、董恢は官位が低かった事もあり、遠慮して帰ろうとしました。
しかし、董恢の有能さを董允は知っていたのか、次の様に述べています。
董允「儂が外に出ようとしていたのは、同じ考えを持つ士らと歓談する為であった。
貴方がわざわざここにお越しになってくれたのなら、きっと良き考えを授けてくれるのだと思っている。
貴方との談話を優先せずに、仲間との話し合いに行くのは、絶対に考えられない」
董允は費禕や胡済との遊行よりも、董恢を優先させる事とし、副え馬を車から外し外出は取りやめました。
董允は董恢の優秀さを知っており、費禕や胡済よりも優先させる事にしたのでしょう。
この話は董允の立派な態度を語る逸話でもありますが、董恢の優秀さを示す逸話でもあると言えます。
尚、ここで登場した董允は董和の子で、劉備に命じられ劉禅の側近となり、教育係と言ってもよい人物です。
孫権の難問
董恢は宣信中郎となり、費禕の副官として孫権の使者となった事がありました。
孫権は伊籍、鄧芝などの逸話を見ると分かる様に、相手が困る様な事を発言する君主であり、難しい相手でもあったわけです。
孫権は酒乱でもあり宴席で酒に酔い、費禕に向かって次の様に述べました。
孫権「楊儀や魏延は牧童の如きであり、鶏や犬程度の活躍はしたが小心だとしか思えない。
しかし、蜀では楊儀や魏延を任用してしまったからには、軽く扱う事も出来まい。
仮に諸葛亮が突然いなくなってしまったら、楊儀と魏延は互いを恨み問題を起こす事になる。
周りの者は、どの様にすればいいのかも分からなくなるであろう。
これは子孫に対して、よい事であろうか」
楊儀と魏延はそれぞれ文官、武官として多いに仕事ぶりを評価されていましたが、火と水の仲だったわけです。
魏延が楊儀に対し剣を突き付け、楊儀が涙を流した事もあり、魏延と楊儀の仲の悪さは、呉まで伝わっており、隠しようがなかったのでしょう。
孫権の言葉を聞いた費禕は愕然としてしまい、返答に困ります。
魏延と楊儀の仲を何とか取り持っていたのが、費禕でもあり、言葉に詰まってしまったのでしょう。
この時に、董恢は費禕に目配せをし、董恢が変わりに孫権に返答しました。
董恢「分かりやすく言えば、楊儀と魏延の仲は個人的な恨みを持っているだけです。
韓信や黥布の様に、謀反を起こそうとしているわけではありません。
現在は強大な力を持つ逆賊を討伐するのが最優先であり、天下を統一するには才能と功績が必要です。
功績は才能によって成就し、天下統一の事業は才能により拡大され成されます。
もし才能がある彼らを用いず、後の禍を防ごうとするのであれば、波が起こるのに備えて櫂を捨てる様なものです。
これでは、優れた計画だとは言えません」
董恢の話を聞いた孫権は大笑いし、喜んだ話があります。
董恢の話は的を得ており、前漢の劉邦に仕えた韓信や黥布は謀反を起こしていますが、楊儀や魏延は仲が悪くても「劉禅に代わって皇帝になる」などの気持ちは微塵もなかったはずです。
ただし、孫権の発言もまた当たっており、諸葛亮が司馬懿と対峙していた五丈原の戦いで亡くなると、魏延と楊儀は反発しました。
魏延と楊儀は個人的な対立から、南谷口の戦いが起こり、魏延は命を落としています。
巴郡太守に昇進
諸葛亮は董恢の話を聞くと、多いに董恢を評価しました。
諸葛亮は董恢の話は「わきまえた話」と評価し、帰国して三日も経たずに、丞相府の属官にしたとあります。
さらに、董恢を巴郡の太守としました。
諸葛亮としてみても、董恢が機転が利き、使える人物だと判断したのでしょう。
蜀では鄧芝が呉との友好の懸け橋になっていた部分がありますが、諸葛亮は董恢に対しても同じ役割を期待したのでしょう。
ただし、鄧芝は車騎将軍になったなどの話がありますが、董恢に関しては、巴郡太守になってからの逸話がなく、どの様な最後を迎えたのかは不明です。
董恢は文官故か目立たない功績が多く、歴史には実績が残らなかったのかも知れません。