劉普は劉渙や劉曄の父親です。
劉普の名前は正史三国志の劉曄伝に記述があります。
劉曄が揚州淮南成徳県の人だとあるので、父親の劉普も淮南の出身となるのでしょう。
劉普の家系は後漢の光武帝の子である劉延の家系である事から、王族で名士だと言えます。
劉普に伝わっている逸話は、劉曄伝にある妻の脩の遺言を劉曄が守ったという逸話だけです。
劉普は劉曄の行動に驚きますが、劉曄を高く評価した話があります。
今回は劉渙や劉曄の父親である劉普を解説します。
尚、三国志の世界には袁紹から皇帝になる様に要請されるも、公孫瓚と対立し殺害された劉虞なる人物がいます。
劉虞の家は光武帝の子・劉彊の家系であり、劉普とは遠戚となります。
劉曄が食客を暗殺
劉普の妻の脩は病気で亡くなりますが、亡くなる直前に劉渙と劉曄に、父親の食客を殺害する様に述べます。
脩が劉普の食客を殺害する様に命じたのは、劉普の食客が「たちが悪い性質」だったからだと記録されています。
脩が嫌った食客は弁が立ったのか、人に取り入るのが巧みだったと伝わっており、劉普のお気に入りの食客だったのかも知れません。
脩の遺言を受けた時の劉渙は9歳で、劉曄は7歳の子供でした。
劉普はこの事を知らずにいたわけですが、6年が経過した頃に劉曄が食客をいきなり殺してしまったわけです。
これには劉普だけではなく家中も仰天し、多いに驚く事になります。
劉曄は食客を殺害すると、そのまま母親の脩の墓所に行き報告しました。
劉曄を認める
劉普は劉曄の行動に怒りを示し、部下に劉曄を追いかけさせたわけです。
劉曄は戻って来ると、劉普に向かって次の様に述べています。
劉曄「私が父の食客を殺害したのは亡き母の遺言の為です。
父上に相談する事もなく、勝手に行動してしまった罪は存分に受ける事に致します」
劉曄は劉普に対し、堂々と意見を述べたのでしょう。
この時の劉曄の態度が余りにも堂々としていたせいか、劉普は「劉曄は見所がある」と考え、罪を問いませんでした。
劉普の食客の話は、劉曄の大胆さと決断力の高さを示す逸話にもなっています。
尚、劉曄は智謀の将と思われがちですが、後には鄭宝を自ら暗殺するなど、時として度胸満点の行動を見せる事があります。
劉普が評価した劉曄は、この後に曹操、曹丕、曹叡と仕えて魏の重臣となっていくわけです。
劉普に関してですが、この逸話以外に話しが特に伝わっておらず、この後にどうなったのかも分かりません。
劉普の最後も不明です。
劉曄が魏で出世したお陰で、それなりに良い暮らしは出来た可能性はある様に感じました。