その他 三国志

鄭宝は廬江に割拠した一大勢力

2022年5月28日

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宮下悠史

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名前鄭宝
生没年不明
時代後漢末期、三国志
コメント劉曄に暗殺される

鄭宝は揚州の廬江に割拠した頭目の一人であり、万を超える人々を動かすほどの勢力だった話があります。

鄭宝の名前は正史三国志の劉曄伝に記録されています。

鄭宝は名士の劉曄を名目上の頭にしようと企てています。

しかし、劉曄は鄭宝と組むのを嫌い、鄭宝を暗殺してしまいました。

揚州に割拠

鄭宝に関しては、劉曄伝に下記の記述が存在します。

「揚州の人物には軽はずみな者や、ずる賢い荒くれ者が多く、鄭宝、張多、許乾などと言った者が、それぞれに配下を抱えていた。

その中でも鄭宝がもっとも勇敢で決断力にも富み、才能は人並み優れていた」

上記の記述から、鄭宝は荒くれ者を率いた頭目の一人だった事が分かります。

揚州には張多許乾などもいた様ではありますが、鄭宝が最大の勢力を誇っていた事になります。

劉曄が魯粛に送った手紙の中に「廬江の人々が多く鄭宝に従っている」とする記述があり、鄭宝は揚州の廬江を中心に活動していたのでしょう。

尚、劉曄が魯粛に送った手紙の中には「鄭宝は1万余りの衆を擁している」と書かれており、鄭宝は1万人ほどの人々を動かせるだけの力を持っていた事になります。

廬江には袁術が任命した劉勲が廬江太守としていたはずですが、独立勢力として鄭宝がいたのでしょう。

長江の南に行く事を模索

鄭宝に関してですが、次の記述が存在します。

「鄭宝は人民を追い立てて、長江の南に行くつもりだった」

鄭宝が何を目的に長江の南に移動したかったのかは不明ですが、鄭宝は長江を超えて南に行こうとしたわけです。

袁術が後年に深刻な食糧不足に悩まされた話があり、鄭宝は食料を求めて部下達と共に南方に行こうとしたのかも知れません。

しかし、鄭宝は名士でもなく、多くの人々を率いるには名士層の力が必要だと考えます。

この時に白羽の矢が立ったのが、劉曄だったわけです。

劉曄は劉普の子で兄に劉渙がいました。

劉曄は13歳の時に兄の劉渙に父の側近を暗殺しようと持ち掛けますが、劉渙は実行出来なかった話があります。

それに対し劉曄は母親の脩の遺言を守り、劉普の側近を殺害しており度胸満点の人物でした。

さらに、人相見の許劭も劉曄を高く評価しており、名が通っていた人物だったのでしょう。

鄭宝は劉曄の名声を利用し、劉曄を頭目に立てた上で長江を渡ろうと画策しました。

劉曄が嫌がる

鄭宝は劉曄を名目上の頭にしようとしますが、劉曄の方では鄭宝を嫌がったわけです。

鄭宝は劉曄を無理やりにでも、頭目に担ぎ上げようと考えました。

この時の劉曄は20歳そこらの若者でしたが、鄭宝の力が強大であり、どうする事も出来なかったわけです。

こうした中で、曹操が使者を派遣し、廬江の調査を始めました。

劉曄は廬江から立ち去りたいと考えていたのか、曹操の使者の帰還の共に加わろうと考え数日間も粘ります。

この時に鄭宝も、曹操の使者の前に数百人の手下と牛と酒を持って、様子を伺いに来ました。

劉曄と鄭宝は出会ってしまったわけであり、劉曄としてみれば、かなり気まずかったはずです。

鄭宝の最後

鄭宝と劉曄は酒盛りをする事になります。

鄭宝としては劉曄を頭目に担ぎ上げたいと思っており、説得したいと考えていたはずです。

さらに、劉曄が言う事を聞かなければ、荒くれ者の鄭宝は拉致してしまった可能性もある様に思います。

劉曄は鄭宝の暗殺を考え、下男や血気盛んな若者らに、鄭宝を討たせる様に命じました。

劉曄としては酒に酔った鄭宝の首を挙げるつもりでしたが、鄭宝は下戸だったのか酒を嫌い酔う事はなかったわけです。

劉曄が用意した暗殺者も鄭宝の様子を見て、動く事が出来ませんでした。

劉曄は周りの者では鄭宝を討ち取る事が出来ないと判断し、自ら佩刀を持ち鄭宝を殺害します。

劉曄が鄭宝の首を挙げた時に、場が騒然となりますが、劉曄は次の様に述べました。

劉曄「曹公(曹操)からの命令である。じたばたと動く者がいれば、鄭宝と同罪に致す」

劉曄の言葉に鄭宝の部下達は恐れ、陣営に逃げ帰ったわけです。

鄭宝の部下を纏める

劉曄は鄭宝の馬に乗り、数人の下男を引き連れ鄭宝の陣営の門の前まで行きました。

鄭宝の陣営には数千の兵と親分連中がいましたが、劉曄は利害を説きます。

劉曄の説得により鄭宝の部下達は地に頭を付けて、劉曄を陣営に迎え入れたわけです。

この時の劉曄の説得が巧みで思いやりがあったせいか、鄭宝の部下達は劉曄に従い服従したとあります。

これにより鄭宝の勢力は、劉曄が率いる事になります。

ただし、劉曄は王族のはしくれでしかなく、資金力があるわけでもなく、鄭宝の部下達を率いる事は出来ないと考えました。

劉曄は陣中で暴動が起きる事を恐れたのか、廬江太守の劉勲に鄭宝の部下達を預けています。

劉勲は旧袁術軍も指揮下に収める事に成功しており、揚州で最大の勢力となります。

ただし、劉勲は孫策により彭沢の戦い西塞山の戦いで破れ、曹操を頼って北方に逃れました。

鄭宝を暗殺した劉曄も、曹操に仕える事になります。

鄭宝と劉曄の謎

魯粛伝の記述によると、劉曄と魯粛は親しい仲であり、劉曄が魯粛に手紙を送った話があります。

劉曄が魯粛に送った手紙は、次の内容であり鄭宝の事も書かれていました。

「現在、天下の英傑が各地で蜂起しております。

貴方(魯粛)の資質と才能は、こうした時にこそ生かされるのです。

急ぎ却って母上を迎え、東城で無為に月日を過ごしてはなりませぬ。

近くでは、鄭宝がおり巣湖で1万ほどの勢力を擁しています。

鄭宝がいる土地は肥沃であり、廬江の人々の多くが鄭宝に身を寄せています。

鄭宝を見るに、さらに多くの人々が集まりそうです。

時を失うべきではありません。あなたも急いだほうがよいでしょう」

劉曄の手紙を見ると、鄭宝が強大で、さらに勢力が増しそうだと述べているわけです。

劉曄の手紙では鄭宝に仕える様に述べていますが、劉曄伝の記述だと劉曄が鄭宝を暗殺しており、劉曄の魯粛への手紙には嘘が含まれていたのではないか?とも考えられています。

魯粛は劉曄に返事をすると、劉曄の計画に賛成し、祖母の葬儀が終わると北に向かおうとした話があります。

この時に呉では、孫策が既に亡くなっていた様であり、孫権が後継者となっていました。

魯粛は鄭宝に仕えようと思ったのか、曹操に仕えようと思ったのかは不明ですが、旅立つ前に周瑜と会っています。

周瑜は魯粛を引き留め、魯粛は孫権に仕えました。

これを考えると、鄭宝の死で魯粛の人生が変わった事も考えられ、魯粛がいなければ劉備も蜀を取る事が出来ず、天下三分の計は成り立たなかった可能性もあるでしょう。

鄭宝が死ななければ、魯粛は鄭宝の元に行き、後に曹操に仕えた事も考えられると感じています。

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