袁奥の字は公栄であり『袁氏世紀』に名前が登場する人物です。
既にお気づきの方もいるかも知れませんが、袁氏世紀は正史三国志の陳寿が書いた本文ではなく、裴松之による注釈から出た記述となります。
袁奥の父親は袁渙であり劉備、袁術、呂布、曹操と、四人もの君主を変えながらも、節義に全うした人物でもあります。
袁奥の兄弟には袁侃、袁㝢、袁奥、袁準の四人がいた話がありますが、全員が優れた能力を持っていた話があり、袁奥も優れた人物だった様に感じました。
今回は正史三国志の注釈・袁氏世紀に登場する袁奥の解説をします。
名門出身
袁奥ですが、袁渙の三番目の子だと考えられています。
袁奥が袁渙の第三子だったとする記述はありませんが、記録順で考えると袁奥が三番目に書かれており、第三子だと考えられる事が多いです。
袁奥の父親である袁渙は名士であり、袁奥も生活に困る事は無かった様に思いました。
袁奥が幼い頃に袁渙が亡くなってしまった可能性もありますが、曹操は陳宮や蒯越など遺族の面倒をよく見た話があり、遺族に対しての待遇は良かったと考えられます。
父親の袁渙が亡くなった時に、曹操は涙を流したとあり、曹操は袁渙の遺族の面倒もしっかりと見たと考えるのが妥当だと感じました。
袁奥の兄である袁㝢は、官位に就くことなく亡くなってしまいましたが、袁奥は魏に仕える事となります。
袁奥の人物像
袁氏世紀によると、次の記述が存在します。
※袁氏世紀の記述
奥(袁奥)の字は公栄であり、袁奥の行動は世俗を奮い立たせるに十分だった。
言葉は簡略ながらも妥当だった。
上記の記述から袁奥は人を奮い立たせたり、やる気にさせるのが得意だったと言う事なのでしょう。
兄の袁㝢が精密な議論を得意としていたのに対し、袁奥は簡略な言葉を熱量を以って発するタイプだったのかも知れません。
袁奥に関しては、簡略な記述しかありませんが、やはり優秀な人物だったと見る事が出来ます。
人を奮い立たせるのが得意であれば、兵を率いるのも才能があった様にも感じました。
袁奥の最後に関しては、次の様な記述が存在します。
袁奥は光禄勲の官で亡くなった。
上記の記述から、袁奥が光禄勲にまで出世した事が分かります。
光禄勲は九卿の一つであり出世したと言うべきでしょう。
光禄勲の官で袁奥が亡くなった事を考えると、在官している時に何らかの事故や病気などで亡くなってしまった様に思います。
突然死だったのかも知れません。
尚、袁奥が何年に亡くなったのかは記録がなく分かっていない状態です。