三国志 西晋 魏(三国志)

袁準(えんじゅん)は文化人であり多くの書物を残す

2022年6月27日

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名前袁準(えんじゅん) 字:孝尼
生没年不明
勢力西晋
コメント多くの書物を著した文化人

袁準は文化人として、多くの書物を残すなどの業績を挙げた人物です。

袁準の父親は袁渙であり、兄に袁侃袁㝢袁奥がいた事が分かっています。

袁渙の子は全員が優秀だったと伝わっていますが、その中でも文化人として最も業績を挙げたのが袁準だと言えるでしょう。

袁準が著した『袁子』の中に、呉の重臣である張昭が諸葛亮を推挙し、諸葛亮が孫権に仕えなかった話が掲載されています。

しかし、この話は正史三国志に注釈を残した裴松之は避難しました。

兄弟の袁侃、袁㝢、袁奥は若くして亡くなったかの様な記述がありますが、袁準には若くして亡くなったなどの記述はなく、兄弟の中では長生きした可能性もあります。

尚、袁準の子に袁沖がいた事が分かっています。

嵆康の弟子となる

正史三国志の王粲伝の注釈・嵆氏譜によると、嵆康が亡くなる時に、次の様に述べた話があります。

嵆康「袁孝尼(袁準)が過去に私から広陵散を学ぼうとしたが、私は頑固にも教えなかった。

広陵散はここで尽きるのだ」

広陵散は楽曲の名であり、袁準が嵆康から演奏の仕方を学ぼうとしましたが、嵆康が頑なに拒み教えなかったとする話となっています。

袁準が嵆康から学ぼうとした記録がある事を見ると、袁準は嵆康に弟子入りした様に思います。

袁準は嵆康から広陵散を伝授して貰う事は出来ませんでしたが、琴の腕に対しても一定の力量は持っていたのでしょう。

袁準は書物を書くだけではなく、楽曲を演奏させても優れた技術を持っていた様に思います。

マルチな文化人と言った感じだったのかも知れません。

余談ですが、嵆康は竹林の七賢にも選ばれている文化人であり、袁準は一流の文化人からも教えを受けていた事になるはずです。

袁準は家柄もよく名士であり、文化人としての技術も磨きやすい環境にいたのでしょう。

書物十余万字

袁氏世紀に次の記述が存在します。

※正史三国志注釈・袁氏世紀の記述

袁準は書物十余万字を世に出し、政治について論じた。

『易』『周官(周礼)』『詩経』の伝(注釈)を書き、五経の意義に通じない部分、聖人の微妙な言葉について論じた。

これらの文章により、世間に自分の思想を伝えたのである。

以上は袁準の自序である。

これらの事から袁準が多くの事を論じ、書物として世に出した事が分かるはずです。

袁準が著したとされるものでは「袁子正論」「袁子正書」「儀礼喪服経注」「袁子集」などがあり、隋書、旧唐書、新唐書、全晋文などに視る事が出来ます。

袁準が一流の文化人だった事は間違いなさそうです。

権力欲と無縁の人

袁準の人柄を指す言葉が袁氏世家に残されており、袁準は誠実公正な人で下級の者に質問する事を恥とせず、人が自分以上でない事を懸念するだけであった。

世事多難な時代であっても栄利を求めず、世に出る事をしなかった。

これらの記述から見ると袁準は権力欲もなく、無欲な人でもあったのでしょう。

袁準が教えを請うた嵆康が老荘思想を好んだ話もあり、通じるものがあった様に思います。

ただし、袁準が全く仕官しなかったわけでもなかった様で、荀綽の九州記には、次の記述が存在します。

※正史三国志注釈・九州記の記述

袁準は優れた才能を持っており、泰始年間に給事中となった。

袁氏の子孫は代々名声官位を保ち、高い身分は現在でも続いている。

上記の記述を見ると分かる様に、袁準が全く仕官をしなかったわけではなく、官僚になった記録もあります。

それでも、袁準は仕官を嫌がりましたが、司馬懿の様に無理やり仕官させられた可能性もあるのではないかと感じました。

裴松之の非難

袁準が著した「袁氏」の中に、孫権と張昭、諸葛亮の逸話があります。

諸葛亮が呉に来た時に、呉の重臣である張昭は諸葛亮を推挙したわけです。

張昭も名士であり、同じく名士層の諸葛亮を孫権に推挙したと言う事なのでしょう。

しかし、袁準が書いた「袁氏」の中で諸葛亮は「孫権は私の才能を認める事は出来るが、存分に発揮させる事は出来ない」と述べた話があります。

諸葛亮は孫権の配下になる事よりも、自分の力を発揮させてくれる劉備の下を望んだ話となります。

この記述に関して、裴松之は次の様に述べています。

「袁孝尼は著した文章や立てた論を見ると、諸葛亮の人間性を重んじてはいるが、的外れでもある」

裴松之は劉備と諸葛亮は心から交わったのであり、諸葛亮は劉備が自分の力を発揮させてくれるから、劉備に仕えていたわけではないと述べました。

さらに言えば「関羽が曹操の元にいた時に、曹操は関羽の力を存分に発揮させたが、関羽は劉備の元に帰った」事も理由に挙げています。

つまり、関羽は劉備に仕える事を全うしようと考えて劉備の元に戻ったのであり、諸葛亮も劉備の配下として全うする為に、劉備の元に戻ったと裴松之は言いたかったのでしょう。

袁準が張昭が諸葛亮を推挙した話を、どこで聞いてきたのかは不明ですが、裴松之は的外れだと述べたわけです。

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

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