劉靖は揚州刺史として実績を挙げた劉馥の子です。
劉靖に関しては正史三国志の劉馥伝に記述がありますが、父親である劉馥よりも、劉靖の方が内容が詳しく記載されています。
劉靖は河南尹になった話がありますが、恩恵を与えながらも細かく統治しました。
劉靖は役人としても順調に出世を果たし、零陵渠の治水工事や北方の守備にも手腕を発揮し、農業を盛んにさせるなどの実績を挙げた人物です。
劉靖は魏の曹芳が皇帝で、司馬師が実権を握った時代に亡くなりますが、良き官吏だったと言えるでしょう。
廬江太守となる
劉馥伝によれば、劉靖は黄初年間に黄門侍郎から、廬江太守に昇進したとあります。
黄初年間は魏の曹丕が皇帝をしていた時代であり、廬江は過去に、父親の劉馥が揚州刺史として訪れ、当地で暴れていた梅乾、陳蘭、雷緒らを手懐けた地でもあります。
劉靖の廬江太守としての手腕は、中々の出来だった様で、曹丕は詔勅の中で「父親(劉馥)の業を受け継ぐ者」として評価しました。
後に劉靖は廬江から河内に移り、尚書に昇進し関内侯の爵位を賜わる事になります。
さらには、河内尹となり、順調に出世したと言うべきでしょう。
応璩に称賛される
劉馥伝に応璩が劉靖に送った手紙の内容があり、劉靖の統治を称賛した話があります。
応璩が劉靖に送った手紙の内容は「応璩」の記事で書きましたので、ここでは割愛します。
劉靖の統治はかなり細かく行い、法律にはかなり厳しく取り締まった話があります。
それでも、社会的弱者に対しては劉靖が恩恵を与えた話があり、応璩は劉靖の政治を称賛したわけです。
尚、傅子に河南尹となった司馬芝、劉靖、李勝、傅嘏の話があります。
傅子によれば、司馬芝はおおまかで、劉靖は「小さな網の目まで統括し、非常に細かかった」とあります。
それに対し、李勝は恒常的な規則を壊す事によって、一時的に名声を得たとあります。
それを考えると、河南尹となった劉靖は、規則はかなり厳しく実績は挙げましたが、不便は面があり、劉靖が作った規則の一部を李勝が壊す事により、李勝は名声を挙げたという事なのでしょう。
劉靖の政治は蜀の諸葛亮の様な方針だったのかも知れません。
尚、劉靖の政治に関しては正史三国志に、劉馥の遺風だとする記述もあります。
後に劉靖の母親が亡くなった事で、官を辞しますが、後年に大司農衛尉となり、広陸亭侯に爵位を進めました。
この時に領地は三百戸だったとあります。
劉靖の思想
正史三国志に劉靖の思想が述べられており、儒教に関して次の様に述べています。
正史三国志 劉馥伝より
学問は政治が乱れるのかどうかの根幹です。
聖人(孔子)が出した大教典がございます。
黄初に大学を建立して以来、20年以上も経過しておりますが、学問を完成させる事が出来た者は殆どおりません。
私が思うに博士の選定は軽く扱われ、学生たちは役務から逃れる為に、大学に入る様にしております。
貴族出身者の学生は、同じ家柄でない者といる事を恥としておりますし、こうした考えでは学者が育ちません。
大学という看板だけはありますが、それに相応しい人間がおらず、大学の教育は設置されてはいますが、実績がないのです。
私は博士を選ぶ基準を高くし、人の手本となるような品行を持ち、先生となれるだけの人間性を持った人物を選び出し、学生の指導を行わせるべきだと考えます。
古代の法に則り、二千石以上の官吏の子孫は、15歳から全て大学に入学させる様にします。
そこで昇進、追放、栄誉、恥辱を教え、彼らの中で経書に明るく、品行がよい者は取り立てる事により道徳心を高めさせます。
逆に教育を疎かにし、学業をやめた者は追放する事により悪を懲らしめるのです。
成績の良い者は登用を行い、出来の悪いものを教化させれば、励みとなります。
表面だけが派手で軽薄な交友などは禁止せずとも、自然と無くなるはずです。
大きな教化を広めれば、服従していない者も安んずる事が出来ますし、天地四方が開化され遠方の者も来訪する事になるでしょう。
これこそが聖人の教育であり、天下泰平を招く基礎となります」
上記の言葉から劉靖が如何に学問を重視し、行いを重視したのかが分かります。
劉靖が治めた地では、この様な方針が政治にも濃くでていたのでしょう。
国境地帯の守備を確立
後に劉靖は鎮北将軍・仮節都督河北諸軍事となります。
劉靖は不変の大法則として、防禦以上の策はなく人民と蛮民を分けるのが良いと考えた話があります。
太古の昔より中華王朝は、匈奴などの北方の異民族に対し苦慮して来た歴史があります。
北方の遊牧民に対しては、戦国時代や秦の時代に李牧や蒙恬が匈奴を大破し、漢の李広、衛青、霍去病らが多いに武功を挙げた話があります。
しかし、中華王朝が北方の遊牧民に勝つ事は地政学的にも難しく、劉靖はそれらを理解したからこそ、防禦に徹する事にしたのでしょう。
劉靖は北方の守備を確立し、要害の地を拠点に選び軍を置きました。
さらに、零陵渠と呼ばれる運河の大堤防を整備し、零陵渠の水を使い農業効率を高め民衆を富ませた話があります。
劉靖は三年に一度・休耕地を作るやり方を行ったとあり、農業に関しても知識があった事が分かります。
劉靖の最後
政治家としての役目を立派にこなした劉靖ですが、嘉平六年(254年)に亡くなった話があります。
この時代は司馬懿も既にこの世になく、魏では司馬師が実権を握っていた時代です。
劉靖が亡くなると征北将軍を追贈され、建成郷侯に爵位を勧めたとあります。
劉靖は景公と 諡された話があり、功績は魏国において高く評価されたのでしょう。
劉靖の子には、劉熙と劉弘がいますが、劉熙が後を継いだとあります。
劉靖は鎮北将軍で亡くなったわけですが、後任には許允が就任しました。
尚、正史三国志の夏侯尚伝の注釈・魏略には「鎮北将軍の劉静が亡くなった」とする記述が存在しますが、役職が鎮北将軍で時期的に劉靖と合致する為、劉靖と劉静は同一人物だと考えられています。