名前 | 龐煖(ほうそう) |
生没年 | 不明 |
勢力 | 魏 |
龐葱は戦国策の魏策に名前が登場する人物です。
龐葱は「三人虎を成す」の諺にもなった人でもあります。
龐葱の戦国策の記述では、魏王としか書かれていませんが、一般的には魏の恵王だと考えられています。
龐葱は人質になる太子のお供として、趙に行きますが、魏の恵王に「市場の虎」を例に出し、釘を刺しますが、結局は讒言に負け解任されてしまいました。
「三人虎を成す」は三人が同じ事を述べれば、嘘でも本当の事になってしまう例としての逸話となっております。
尚、龐葱に関しては、この逸話の他に記録がなく分かっていません。
因みに、魏の龐姓の人物では龐涓がいますが、龐葱との関係は不明です。
さらに言えば、龐葱が趙から帰る事が出来なかったのであれば、趙の悼襄王の時代に将軍となった龐煖の先祖の可能性も残っている様に思います。
太子のお供として趙に行く
龐葱は魏の太子が趙に人質に行く事になると、補佐として趙に行く事になりました。
魏の太子が趙に人質として行く理由ですが、魏は紀元前342年に斉に馬陵の戦いで破れており、さらに秦の商鞅や趙に敗れ窮地に立たされています。
ここで魏の恵王が、趙に太子を和睦の為の人質として、入れたのではないかと考えられています。
尚、魏の恵王の太子申は斉との戦いで捕虜となっており、ここで言う太子は魏嗣(後の魏の襄王)の事だったのかも知れません。
龐葱は魏の太子の補佐として、趙に向かう事になったわけです。
三人が虎が出たと言えば
龐葱は太子のお供として、趙に行く前に魏の恵王に、次の様に尋ねました。
龐葱「市場に虎が出たと言ったら、信じますでしょうか?」
龐葱の問いに対して、魏の恵王は「信じない」と言いますが、龐葱が三人が虎が出たと言ったら信じるか?と問うと「信じる」と述べたわけです。
龐葱は自分に謀反を起こす気は全くないと説明し「自分を悪く言う者は3人くらいではない」と述べた上で、讒言を信じない様に魏に恵王に釘を刺しました。
これが「三人虎を成す」の諺の語源とあり、龐葱の説明は巧みだったとも言えます。
こうして龐葱は魏の太子と共に、趙に向かいますが、趙に到着する前に、既に龐葱の事を悪く言う者が現れます。
後に魏は体制を立て直したのか、趙に人質に言っていた魏の太子は人質の任を解かれます。
魏の太子は無事に魏に帰りますが、魏の恵王は讒言を真に受けた事で、龐葱は魏の恵王に再び謁見する事が出来ませんでした。
龐葱の話は滑稽に感じるかも知れませんが、魏の恵王の愚鈍さを現わす逸話にもなっています。
尚、この話と似ている話が秦の武王と甘茂の間であります。
甘茂は曾参を例に出し「曾参が人を殺した」と三人が言えば、息子を信頼している母親であっても信じてしまうと述べています。
ただし、秦の武王は魏の恵王と違い、甘茂を解任する事はしませんでした。
龐葱を解任した魏の恵王と秦の武王で考えれば、秦の武王の方が優れていると言えるでしょう。