春秋戦国時代

介子推(かいしすい)は清廉潔癖の士

2022年7月30日

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宮下悠史

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名前介子推(かいしすい) 別名:介推
生没年不明
時代春秋時代
主君重耳→隠者
コメント後世に名を残した誇り高き人物

介子推は重耳の亡命生活に付き従った臣下です。

介子推の話は史記や春秋左氏伝にも書かれています。

介子推の具体的な功績は伝わっていませんが、清廉潔癖の士として後世に名を残しています。

作家の宮城谷昌光氏が「介子推」を題材にした小説を書いた事で、一気に有名になった人物とも言えます。

宮城谷昌光氏は自分の好きな人物として「介子推」と「先軫」を挙げており、共に重耳配下の人物だというのは、興味深いと感じました。

今回は気高き臣下である介子推の解説をします。

ただし、介子推の様な人が実在したとしたら、かなり生きにくいのではないか?とも思いました。

介子推の話は物語性もあり、春秋戦国時代を題材にした漫画であるキングダムでも、スピンオフでもいいからやって欲しいという声もある様です。

重耳に仕える

晋の献公が驪姫を寵愛した事で、晋は混乱し申生は自害、重耳と夷吾は国外に亡命しました。

重耳の亡命には介子推も、付き従う事となります。

介子推の出身地や、重耳に仕えた経緯などは分かっていません。

ただし、史記の晋世家に次の記述が存在します。

※史記 晋世家の記述

重耳は五人の賢士の他、無名の士十数人を従えて狄に入った。

五人の賢士は趙衰、狐偃、賈佗、先軫、魏犨であり、無名の士の中に介子推や壺叔が含まれる様に感じています。

最終的には驪姫も驪姫の子・奚斉、卓子も里克、丕鄭らにより殺害されました。

里克は亡命中の重耳を晋君に立てようとしますが、重耳が断った事で秦の穆公の後援を受けた夷吾が、晋の恵公として即位しています。

夷吾が閹楚、勃鞮を刺客として、重耳に送り込んだ事で、重耳は各地を渡り歩く事になり、介子推も同行しました。

割股奉君

重耳の一行は曹の国に入りますが、曹では曹の共公に無礼な態度をされたりもしています。

こうした中で、重耳配下の里鳧須が財物を盗み逃亡しました。

里鳧須が食料まで持って逃げた事で、重耳の一行は飢えに苦しみますが、この時に介子推は自分の股を割いて重耳に与えた話があります。

この話が「割股奉君」となります。

しかし、常識的に考えて自分の股を割いて介子推が与えてしまったら、旅に同行する事も出来なくなってしまうはずです。

さらに、割股奉君はやりすぎとも言える行為でもありますし、史実とは考えにくいと感じました。

割股奉君は介子推の仁義を強調する為の、創作だと考えた方がよいでしょう。

尚、中国では飢えに苦しむと人間同士が食べ合った話もあり、介子推が生きた春秋時代より、800年以上も後の三国志の世界でも王忠が人肉を食べた話が存在します。

介子推と年代が重なる斉の桓公も、人肉を食べた話があります。

介子推が重耳の元を去る

重耳は曹、衛、鄭などの小国では冷遇されましたが、大国である斉、では好待遇で迎えられました。

晋の方でも晋の恵公が亡くなり、秦から逃亡した晋の懐公が晋君として即位します。

秦の穆公は重耳を晋の君主にしようと考え、重耳を迎え晋に送り届ける事にしました。

これにより、重耳は晋の君主になるチャンスを掴み、秦軍に守られ晋に向かう事となります。

重耳が黄河まで来ると、臣下の狐偃(咎犯)が、自分の犯した罪の大きさから重耳の元を去ると言い、重耳は晋に帰国しても、狐偃を重用すると誓いました。

重耳と狐偃の話を船の中で見ていたのが、介子推であり、介子推は次の様に述べました。

介子推「公子(重耳)に道を開いたのは天帝である。

それなのに、咎犯の奴は自分の手柄として恩賞を求めている。

咎犯は何と恥知らずの奴なのだろう。

私は咎犯と同列にいる事は出来ない」

介子推は重耳と狐偃の会話が、狐偃が恩賞を求める為に、わざと去ると言ったと考え、茶番に過ぎないと思ったのでしょう。

介子推は重耳の元を去る事となります。

介子推が重耳の元を去った時期に関しては、重耳と狐偃の話の直後とも後年とも言われています。

それでも、重耳が晋君として即位した頃には、重耳の元を離れていた事は間違いないでしょう。

母親と隠者となる

重耳は晋の君主になると、亡命に付き従った者達を褒賞したわけです。

しかし、重耳の論功行賞は国内外の問題もあったのか、中々進まず介子推も恩賞を貰う事が出来ませんでした。

こうした状況の中で、介子推は母親に、次の様に述べています。

介子推「晋の献公の子は9人もいたが、現存するのは我が主君(重耳)だけとなりました。

晋の恵公や懐公は、親愛する臣下も信用できる配下もおらず、内外から見捨てられたのです。

天がまだ晋を滅ぼす気がないのであれば、誰かが人君にならなければなりません。

晋の祭祀を掌る者は我が君しかいないのです。

実際に我が君の切り開いたのは、天以外の何ものでもありません。

それなのに、2,3の者は自分の力だと思いあがっています。

これは偽りの考えであり、真実とは思えません。

人の財貨を盗むのもは「盗」と言いますが、天の功績を貪り自分の功績だと考えるのは、我慢しがたい事です。

下の者は罪を犯し、主君はそれを褒賞する。

これでは上下が欺き合っている様にしか見えません。

私はそうした連中と一緒にいる事が出来ないのです」

介子推は重耳が晋君になれたのは、天のお陰だと考えたのですが、重耳の臣下の者達は自分の手柄だと考えており、それが許せなかったのでしょう。

介子推の言葉に対し、介子推の母親は次の様に述べました。

母「どうしてお前も恩賞を求めないのか。それで、死んでしまっては、誰も恨みようもないではありませんか」

母親は介子推よりも俗世の考えに近く、重耳から恩賞を貰う様に勧めたわけです。

しかし、介子推は母親が思っていた以上に気高い人物であり、次の様に述べています。

介子推「人を咎めながら、自分でそれを真似るのは大罪としか言いようがありません。

私は恨みの言葉を既に吐いてしまっています。

それ故に、恩賞を貰おうとも思いません」

介子推は恩賞も拒否しますが、介子推の母親も自分の子が哀れに思ったのか、次の様に述べています。

母「お上(重耳)にお前の考えを知って貰ったらどうだろうか」

介子推の母親は介子推の考えを重耳に知って貰えば、重耳の考えも変わるのではないか?と期待したわけです。

しかし、介子推は潔癖の人でもあり、次の様に述べました。

介子推「言葉は身を飾るものでしかありません。

私は身を隠そうと思っているのに、なぜ、身を飾る必要があるのでしょうか。

身を飾るのは顕れようとする行いです」

介子推の言葉を聞いた母親は、次の様に述べました。

母「お前がその様な心になり切れるのであれば、私もお前と共に身を隠す事に致しましょう」

母親も介子推が廉潔の士として生きる覚悟を聞き、納得して身を隠すと宣言しました。

これにより、介子推は完全なる隠者となり、二度と重耳の前に姿を現す事は無かったわけです。

五匹の蛇

介子推は隠者となりますが、介子推の従者が褒賞を貰えず評価されない介子推を哀れに思いました。

介子推は一般的には賊臣だとされていますが、最上級ではないにしても、従者がいた事から、それなりの立場にいた事が分かります。

介子推の従者は書札を宮門に掛け、次の様に文章を記述しています。

竜が天に昇ろうとし、五匹の蛇が補佐した。

竜は既に雲の上にまで行き、四蛇は各々の住処に入る。

一匹の蛇は一人恨み、その処所を見ず。

ここでいう竜は重耳の事であり、五匹の蛇が配下の五臣を指す事は明らかでしょう。

重耳配下の五人の功臣と言えば、趙衰、狐偃、賈佗、先軫、魏犨を指し、介子推は入らない筈であり、既に趙衰、狐偃、賈佗、先軫、魏犨らの褒賞は終わっていました。

しかし、重耳は宮門の書札を見ると、驚き次の様に述べています。

重耳「これは介子推の事だ。

儂は王室の心配ばかりして、彼の功績を褒賞してはいなかった」

重耳は急いで人をやり介子推を召し出そうとしますが、介子推は逃亡した後であり、見つける事が出来なかったわけです。

介山

重耳は介子推を見つける事は出来ませんでしたが、介子推が緜上の山中に入って行ったとする情報を得ました。

重耳は緜上の山中を周囲から区切り、ここを介子推の土地としたわけです。

介子推の封じた地を介推の田とし、介山と称しました。

介子推は重耳により、恩賞を与えられた事となります。

しかし、介子推が介山の領地を治める事は無かったはずです。

史記だと介子推の話の最後に「重耳は自分の誤りを記し、善人を表彰した」で結びとしています。

介子推の最後

十八史略や東周列国志に、介子推の最後が記載されています。

介子推は母親と共に山に入りますが、重耳は何としても介子推に会いたいと考え、山に火をつけたわけです。

山に火を点ければ、介子推が驚き麓まで降りて来るという考えでした。

重耳は山に火を点けますが、介子推は下山する事を拒否し、母親と抱き合って亡くなったと伝わっています。

この話ですが、創作だとも考えられています。

介子推の清廉潔白さから後世の人々が付け足したと考えた方がよいでしょう。

司馬遷と介子推

司馬遷は史記の晋世家の太史公曰くの部分で、次の様に書いています。

史記 晋世家・太史公曰くより

晋の文公は古の名君である。

亡命は19年に及び、その間は困苦を極めた。

しかし、明君として名高い晋の文公でさえ、即位すると介子推の褒賞を忘れた。

されば、驕慢な君主においては、なおさらであろう」

司馬遷は名君の晋の文公でさえ介子推の恩賞を忘れたのに、驕慢な君主であれば、恩賞を忘れるのは当たり前の事だ。と述べた事にもなるでしょう。

司馬遷にとっても、介子推は特別な感情を持った人物だったはずです。

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