春秋戦国時代

韓原の戦い

2022年8月20日

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宮下悠史

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韓原の戦い(かんげんのたたかい)紀元前645年 
勢力
指揮官秦の穆公晋の恵公
兵力不明不明
勝敗勝利敗北

韓原の戦いは紀元前645年に起きたの戦いです。

秦の穆公は何度も晋の恵公を助けたにも関わらず、晋の恵公は背信行為を行いました。

晋の恵公は飢饉の時に晋から食料を援助して貰いますが、秦が飢饉になった時は助けなかったわけです。

さらに、晋の恵公は秦を討とうとした事で、韓原の戦いが勃発しました。

韓原の戦いでは晋軍は纏まりの悪さが目立ちながらも、秦の穆公を捕える寸前まで行きます。

しかし、団結力の無さが表面化し、晋の恵公は捕虜となり戦いに敗れています。

今回は春秋時代の大国である晋と秦が激突した韓原の戦いの解説をします。

韓原の戦いの経緯

韓原の戦いが起きた経緯ですが、晋の恵公は秦の穆公の後押しで晋君となりました。

この時に晋の恵公は、土地を秦に与える約束をしていましたが、晋君になるや約束を反故にしています。

が飢饉の時に、秦の穆公は食料を援助しますが、秦が飢饉になっても晋の恵公は食料を援助しませんでした。

さらに、晋の恵公は虢射の意見を採用し、あろう事か秦を攻撃しようとしています。

秦の方でも晋が攻めて来る情報をキャッチしたのか、お互いが兵を出し韓原の戦いが勃発しました。

ただし、主戦派の虢射に対し、慶鄭は「大恩がある秦と戦うべきではない」と晋の恵公を諫言した話があります。

韓原の戦いの前に、既に晋では内部分裂の兆しがあったわけです。

それに対し、秦軍は兵の数こそ晋軍に劣っていましたが、晋の恵公の背信行為に激怒しており、団結力は高かったと言えます。

晋の恵公と慶鄭の対立

と秦の間で韓原の戦いが行われますが、史記の晋世家によれば、開戦前に晋の恵公は慶鄭に次の様に問いました。

晋の恵公「秦軍は我が領内の深くまで侵攻してきた。どの様に対処すればよいのだろう」

晋の恵公の問いに対し、慶鄭は次の様に答えています。

慶鄭「秦は我が君を助けて晋の君主にしてくれました。

しかし、我が君は秦との約束を破り土地を与えませんでした。

晋が飢饉だった時も秦は助けてくれたのに、秦が飢饉になると背信行為を行い、飢饉に乗じて秦を討とうとしたのです。

秦が深くまで攻め込んで来るのは、当然の事ではありませぬか」

慶鄭は晋の恵公の度重なる背信行為を責めたわけです。

慶鄭の言葉からは、晋の恵公に対して、呆れている様にも見えます。

しかし、韓原の戦いは始まってしまっており、晋に恵公は誰を御者や車右にすればよいのか?を占ってみました。

するといずれも「慶鄭」と出たわけです。

しかし、先ほどの慶鄭の発言が晋の恵公にとっては癪にさわった様であり「慶鄭は不遜だ」と述べ、大夫の歩揚を御者とし、家僕徒を車右としました。

晋軍の恵公が捕虜となる

韓原の戦いが始り、両軍の戦闘準備が整うとの大臣である韓簡が、秦軍に向かって撤退を呼び掛けます。

韓簡は秦軍を偵察に行った話があり、秦の軍勢は数が少なくても、士気は高い事を知っており、出来れば戦いたくはなかったのでしょう。

韓簡の呼びかけに対し、秦の穆公や公孫枝は受けごたえしますが、秦軍は撤退する気はなく、韓簡は韓原の戦いは、晋軍の負けだと悟りました。

しかし、韓簡の戦車には、主戦派の梁由靡と虢射が乗車しており奮戦します。

史記の晋世家によれば、韓原の戦いが始まると、晋の恵公の戦車が泥に嵌ってしまい動けなくなります。

この場面で秦軍が迫ってきており、晋の恵公は窮地に陥り、慶鄭を呼び寄せ御者にしようとしました。

慶鄭は晋の恵公の前に行くと、次の様に述べています。

慶鄭「占いの結果と違う事をしているのですから、敗れるのは当然ではありませぬか」

慶鄭は何度も信義を違える晋の恵公に対して、軽蔑の気持もあったのでしょう。

慶鄭は晋の恵公の元から立ち去る事になります。

史記の晋世家では、晋の恵公は御者を梁由靡にし車右を虢射とし戦いますが、春秋左氏伝や国語では先に述べた様に、韓簡の戦車に梁由靡と虢射が乗車しており、史記と話にずれが生じています。

春秋左氏伝や国語などでは、韓簡、梁由靡、虢射は秦の穆公を捕える寸前まで行きますが、慶鄭が「晋の恵公を助ける様に」と命じた事で、秦の穆公を取り逃がしました。

結局のところは史記も春秋左氏伝も慶鄭が離脱した事は同じであり、晋の恵公は韓原の戦いで捕虜になっています。

尚、韓原の戦いでは、秦の穆公が過去に助けた野人の活躍により窮地を脱した話があります。

韓原の戦いは晋軍の惨敗だったと言えるでしょう。

尚、慶鄭に関しては晋の恵公が捕虜となる原因を作っており、勝敗を分けた部分となります。

韓原の戦いが終わって

韓原の戦いで秦軍は敵の総大将である晋の恵公を捕えるなど大戦果を挙げたわけです。

秦の穆公は晋の恵公を、生贄にしようと考えました。

しかし、秦の穆公の夫人である穆姫は晋の恵公の姉であり、晋の恵公の命乞いをしています。

こうした事情もあり、秦の穆公はの太子圉を人質としてに差し出す事を約束し、晋の恵公の帰国を許しました。

晋の恵公は帰国すると、慶鄭を処刑しました。

慶鄭に関しては正論を述べていた事もあり、蛾析が弁護したりもしますが、結局は処刑されています。

晋の恵公は帰国しましたが、韓原の戦いでの失態は国内で大きく求心力を失う結果になりました。

晋の恵公の求心力が低下した事で、兄の重耳に注目が集まった様に感じます。

晋の恵公は紀元前637年に亡くなり、太子圉が秦を逃亡し晋に戻り、晋の懐公として即位しますが、短期間で滅び晋は重耳の時代が訪れる事になります。

韓原の戦いは、晋の恵公の求心力を大きく削いだ出来事でもあったはずです。

晋の懐公が無事に即位出来なかったのは、晋の恵公による韓原の戦いでも失態が大きかったとも言えます。

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