鄭朝は戦国策に名前がある人物であり、趙から東周の祭地を取り返した人物です。
鄭朝は東周策の項目に名前が挙がっている事から、東周に仕える人物だったのではないか?と考えられています。
ただし、戦国時代は諸子百家と呼ばれる遊説家が多くいた事から、鄭朝も諸子百家の一人だった可能性もあるでしょう。
鄭朝に関しては、史記には名前がなく戦国策の東周策に一回だけ名前が挙がる程度の人物でしかありません。
その為、鄭朝に関しては分かっていない事が多いとも言えます。
それでも、鄭朝は周君の為に、周の祭地を取り返した実績があり、活躍は戦国策に残りました。
趙の祭地を奪われる
戦国策の東周策によると「趙が周の祭地を奪った」とあります。
趙は北方の国であり、わざわざ南下し周の祭地を奪ったという事なのでしょうか。
戦国時代になると各国で王を名乗ったりし、周王の権威は著しく低下していました。
さらに、周王朝の内部での分裂もあり東周と西周に分れる事態となっています。
周王朝がこの様な状態であれば、もちろん弱体化し、東周にとって重要な祭地が趙に奪われても、実力で取り返す事が出来なかったわけです。
周君が鄭朝に相談すると、鄭朝は次の様に述べました。
鄭朝「案じる必要はありません。
三十金あれば、取り返してみせましょう」
鄭朝は周君に「三十金」で趙に取られた地を取り返すと宣言したわけです。
周君は三十金で祭地を取り返せるなら安いと考えたのか、鄭朝に三十金を与えました。
太卜を買収
鄭朝は趙に行くと、趙の太卜(卜官の長)に三十金を贈りました。
さらに、鄭朝は太卜に周の祭地の事をお願いしたわけです。
鄭朝は太卜を買収する事で、周の祭地を取り戻そうとした事になります。
当時は化学が発達していない事から、占いが大きな力を持っていました。
そうした事情に気付いていた鄭朝は、占いを利用すれば周の祭地を取り戻せると考えたのでしょう。
後に趙王が病気になるや太卜は、次の様に述べています。
太卜「病気の原因は周の祭地が祟っているのでございます」
この時の趙王は病気であり、心も衰弱していたのか太卜の占いを信じ、周の祭地の返還を決めました。
鄭朝は見事に任務を果たしたと言えるでしょう。
尚、戦国策には、この話に登場する周君、趙王、何年頃の話なのか?の記載がありません。
その為、この話がいつ頃の話なのかも全くもって不明です。