黄柱は正史三国志の先主伝に名前が登場する人物です。
楊戯の季漢輔臣賛にも登場し、実在した事は間違いないでしょう。
黄柱は九卿の一つである光禄勲に任命された記録があり、蜀漢で高位に昇っていた事は間違いありません。
しかし、黄柱は正史三国志に列伝が立てられているわけでもなく、不明な点が多いのが実情です。
実際に黄柱、頼恭、王謀は実績が伝わっていない為に、伝を作らなかったとあります。
今回は荊州南陽郡の出身で、分かっている事は殆どありませんが、黄柱を解説します。
南陽郡の出身
季漢輔臣賛に南陽の黄柱を光禄勲に任命したとする記述があり、黄柱が荊州南陽郡の出身だという事が分かります。
蜀で南陽出身の人物と言えば、劉備の入蜀で大活躍し、後将軍にもなった黄忠がいます。
黄忠は黄柱と同じく「黄姓」ではありますが、二人の関係を示す資料がありません。
他にも黄姓では劉表配下で江夏太守だった黄祖がいますが、やはり黄柱との関係は分からない状態です。
蜀には黄権もいますが、黄権は益州巴西郡の出身であり、黄柱との関係は薄い様にも感じました。
黄柱が劉備に仕えた経緯は分かっていませんが、劉備が劉表を頼って荊州に来た時に、そのまま劉備と共に益州に来たのかも知れません。
それか、黄柱と同郷の許慈が戦乱を避け交州に住んでいた話があり、劉璋時代に許靖や許慈らと共に益州に入った可能性もある様に思います。
ただし、黄柱に関しては明確な記録があるわけではなく、不明な部分も多いです。
それでも、南陽にいた黄柱が何かしらの理由で益州に移動し、劉備に仕えた事だけは間違いないでしょう。
光禄勲に任命される
劉備は漢中争奪戦で夏侯淵を破り、漢中を手に入れました。
劉備が漢中王になった時の記述として、季漢輔臣賛に次の記述があります。
※季漢輔臣賛より
荊楚の名族で零陵出身の頼恭を太常とし、南陽出身の黄柱を光禄勲に、王謀を少府とした。
上記の記述から、黄柱が劉備の漢中王就任に合わせて光禄勲になった事が分かります。
ただし、黄柱は九卿の光禄勲という高位には就きましたが、先にも述べた様に実績に関しては伝わっていません。
劉備を帝位に就けるべく上奏
220年に荊州の関羽が敗れ蜀は荊州の全ての地を失ってしまいます。
魏でも曹操が亡くなると曹丕が後継者となりますが、曹丕は後漢の献帝から禅譲により、魏の皇帝となりました。
こうした動きに対し蜀でも劉備を皇帝に立てる動きがあり、黄柱、許靖、糜竺、諸葛亮、頼恭、王謀が上奏した話があります。
劉備は221年に蜀漢の皇帝となりますが、この時に諸葛亮が丞相となり、許靖は司徒に任命されています。
しかし、黄柱が劉備の皇帝即位に合わせて昇進した記録がなく、劉備を皇帝になる様に上奏してから行方が分からなくなります。
尚、黄柱が劉禅の時代まで生きていたのかは分かっていません。