
| 名前 | アブド・アッラフマーン3世 |
| 生没年 | 889年ー961年 |
| 在位 | アミール 912年ー929年 |
| カリフ 929年ー961年 | |
| 国 | 後ウマイヤ朝 |
| コメント | 後ウマイヤ朝で初のカリフを宣言した。 |
アブド・アッラフマーン3世は後ウマイヤ朝の8代目アミールであり、後ウマイヤ朝で初のカリフを名乗った人物です。
即位するとハフスンの乱を完全に鎮圧し、西暦929年にはカリフを名乗りました。
当時はファーティマ朝もカリフを名乗っており、アッバース朝のカリフと合わせて3人のカリフが誕生した事になります。
味方によっては中国の皇帝が三人現れた時代の三国志の様であり、イスラム三国志の時代が始まったとみる事も出来ます。
アブド・アッラフマーン3世の時代に後ウマイヤ朝では独自の文化も興隆し、全盛期となりました。
アブド・アッラフマーン3世の即位と反乱の終息
912年に若き王子アブド・アッラフマーン3世が即位しました。
ハフスンの内乱はすでに30年近く続いており、反乱側の将兵も疲弊していたと考えられています。
後ウマイヤ朝側も同様に疲労していたはずですが、アブド・アッラフマーン3世の即位が政権の再結集に寄与したとする見方が一般的です。
アブド・アッラフマーン3世の父は皇太子時代に暗殺され、母は奴隷出身であったと伝えられています。
しかし、国家的危機の中で彼は満場一致で王に選ばれたとされ、即位時には反乱が起きなかったと記録されています。
これは、政権内部が若く有能な指導者を求めていたこと、そして後ウマイヤ朝の存続が最優先課題であったことを示唆しています。
アブド・アッラフマーン3世の時代である918年にハフスンが亡くなり、子らが政権を引き継ぎますが、アブド・アッラフマーン3世は西暦928年までには乱を完全平定しました。
アブド・アッラフマーン3世のカリフ宣言
ハフスンの乱が完全に平定された翌年の西暦929年に、アブド・アッラフマーン3世はカリフを宣言しました。
後ウマイヤ朝が誕生した時は、総督の位にあたるアミールを名乗っており、アブド・アッラフマーン3世も八代目アミールでしたが、ここに来てカリフを宣言しました。
南方のハフスンの乱が終焉した事で、北方のレオン王国などのキリスト教国に当たれる様になった事や、既にファーティマ朝がカリフを宣言しており、カリフを名乗りやすい時期でもあったのでしょう。
アッバース朝も既にアフリカの北部を失っており、アブド・アッラフマーン3世がカリフを名乗っても、どうする事も出来ない状態にありました。
アブド・アッラフマーン3世としても、アッバース朝はウマイヤ朝からカリフの位を奪った簒奪者であり、正統性はないと考えたのでしょう。
ここにおいて、アッバース朝、ファーティマ朝、後ウマイヤ朝と3人のカリフが登場し、カリフ乱立の時代になったと言えます。
それと同時に、本来は一人であるはずのカリフが三人も現れた事で、カリフの権威が大きく失墜したとする見方もあります。
カリフは本来は神の代理人のはずであり、3人もカリフが存在すれば、権威が失墜するのも当然の成り行きでもありました。
独自の文化
後ウマイヤ朝ではアッバース朝のバグダードの文化を倣っていましたが、アブド・アッラフマーン3世の時代になると独自の文化が花開く事になります。
ザフラー宮殿なる後ウマイヤ朝を代表する宮殿も建てられました。
ザフラー宮殿の建設には多くの人々が駆り出され、後ウマイヤ朝の勢いも感じます。
アブド・アッラフマーン3世の時代にカリフを名乗っただけではなく、アッバース朝とも文化面で決別したと言えそうです。
後継者のハカム2世の教育係としてアルメニア出身の詩人で学者でもあるアルカーリを任じました。
これもアブド・アッラフマーン3世の教育方針の一つなのでしょう。
尚、後にハカム2世は後継者としてカリフの座に就きますが「聡明王」とも呼ばれる事になります。
アブド・アッラフマーン3世の最後
アブド・アッラフマーン3世は961年に亡くなりました。
後継者は予定通りにハカム2世となります。
ハカム2世も上手く国を治めました。
ただし、ハカム2世の死後に後ウマイヤ朝は急激に弱体化する事になります。
後ウマイヤ朝の全盛期はアブド・アッラフマーン3世とハカム2世の時代だと言えるでしょう。
| 先代:アブド・アッラー | アブド・アッラフマーン3世 | 次代:ハカム2世 |