エジプト中王国 古代エジプト

アメンエムハト1世は宰相からファラオになった

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宮下悠史

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名前アメンエムハト1世
時代エジプト古王国
王朝エジプト第12王朝
一族父:センウセレト 母:ネフェルト 配偶者:ネフェルイタチェネン
子:センウセレト1世、ネフェル3世
コメントエジプト第12王朝の開祖

アメンエムハト1世はエジプト第12王朝のファラオであり、開祖でもあります。

元はエジプト第11王朝の宰相でしたが、何らかの手法でファラオとなり、エジプト第12王朝を開きました。

宰相からファラオになった経緯から、アメンエムハト1世の正統性は疑問視されており、権威の確率の為に奔走する事になります。

アメンエムハト1世は人間不信にもなっていた様ですが、最後は暗殺された記録の残っています。

アメンエムハト1世の正統性

アメンエムハト1世はエジプト第11王朝の宰相で大きな力を持ちました。

経緯は不明ですが、自らファラオとなり、エジプト第12王朝の開祖となっています。

アメンエムハト1世は、自らの王権の正統性が弱いことを認識しており、それを補うために神話的物語を利用しようとしました。

側近は『ウェストカー・パピルス物語』(エジプト第五王朝のファラオは太陽神ラーが神官の妻に生ませた子供であるという伝承)のように、
王権を神話に結びつける前例を示したうえで、ネフェルティが「アメニという王が混乱の時代にエジプトを救う」と予言した伝承を紹介します。

この「アメニ」がアメンエムハト1世の通称と一致するため、彼は自らを“予言された救済者”として位置づけ、王朝の正統性を確立しようとしました。

アメンエムハトという名前には「アメンは先頭にいる」という意味があります。

アメンは「隠れたる者」という意味があり、またテーベのカルナクを聖地とする神の名前でもあります。

エジプト第11王朝はメンチュヘテプの名前からも分かる様に、アルマントの主神・メンチュウを守護神としていましたが、エジプト第12王朝はテーベの主神・アメンが王家の守護神となりました。

ここから、エジプトでは長いアメン神の時代が始まります。

アメンエムハト1世は、自らの王権を強化するため、エジプトが最も繁栄していた古王国時代と自分を結びつけ、正統性を高めようとしました。

古王国時代の予言を利用すれば、600年も前から自分が王になると予言されていた事になり、非常に強力な権威付けになります。

エジプト第12王朝はアメンエムハト1世によって誕生したとされていますが、アメンエムハト1世は国を無理やり奪った可能性があることから、猜疑心の強さなどが指摘されています。

アメンエムハト1世時代のエジプト

アメンエムハト1世は上下エジプトをよく統治するために、エジプト第12王朝ファイユームの入口付近に遷都しました。

新しい土地は「アメンエムハト・イチタウイ」と名付けられました。

アメンエムハト・イチタウイには「アメンエムハトは二国を掌握する者」という意味があり、アメンエムハト1世が上下エジプトの王になった事を示しています。

アメンエムハト・イチタウイの正確な場所については明らかになっていません。

メンフィスからファイユームのあたり一帯は、古王国時代以来の首都が建設された場所であり、
イチタウイは上下エジプトの統治に適した場所であったと言われています。

この頃のファイユームは穀倉地帯として発展しており、経済的に重要な地域でした。

イチタウイを中心に物質文化も発展していきます。

アメンエムハト1世の子であるセンウセレト1世の時代には土器が規格化し、エジプトの全土に広がっていきました。

ファイユームの辺りにイチタウイを建設したことは、非常に合理的であったと言えます。

ただし、アメンエムハト1世が新都を建設したのは、王権簒奪による猜疑心が強く、テーベにいては危険だと考えたためであるとも指摘されています。

アメンエムハト1世イチタウイの側にあるリシュトにピラミッドを造営しました。

石材にはクフ王のピラミッドの葬祭殿やサッカラのピラミッドの葬祭殿、マスタバの墓などを使用させました。

一見罰当たりだと思われそうですが、当時はクフやカフラーなどといった古王国時代の偉大なる先王の力を授かるという意味があったとされています。

一方で、既に第一中間期を経て崩壊していた石材を使ったに過ぎないとする見解もあります。

ちなみに、アメンエムハト1世のピラミッドは、ギザの三大ピラミッドなどと比べるとかなり質素なものとなっています。

これはピラミッドの石材が盗まれてしまったことなどが影響していると言われています。

また、玄室は水浸しになっており入る事が出来ないそうです。

ピラミッド建設の背景には、ギザの三大ピラミッドを除き、治水工事の一環として造られた可能性が指摘されています。

さらに、アメンエムハト1世は西アジアに対して遊牧民の侵攻を防ぐ為に「支配者の壁」と呼ばれる要塞郡を建設しました。

こうしてみると、アメンエムハト1世の時代には順調に統治が進んでいたのでは、と思えるのではないでしょうか。

しかし、実際には中央集権とまでは行かず、地方には影響力を持った地方豪族が多く存在していました。

こうした時代背景の中で、アメンエムハト1世は長男のセンウセレトを共同統治者にしました。

王が生前から後継者と二人で国を治める体制であれば、王位継承がスムーズに行われると考えたのです。

共同統治とは王が生前に次の王を指名するというものです。

王が亡くなった後の混乱を防げるなどのメリットがあり、合理的なシステムだと言えます。

アメンエムハト1世とセンウセレトの共同統治に関しては、過去には懐疑的な見方も存在しましたが、現在では複数の資料が見つかっており、共同統治は実際にあったと考えられています。

アメンエムハト1世の最後

アメンエムハト1世の治世は30年にも及んだとされていますが、最終的には何者かに暗殺され生涯を終えています。

アメンエムハト1世自身がクーデターを恐れていたと考えられていることを踏まえると、その最期はきわめて皮肉なものだったと言えます。

アメンエムハト1世が殺害された当時、共同統治者であったセンウセレト1世はリビア遠征中にあり、そのため共に襲撃されずに済んだと考えられています。

アメンエムハト1世の教え

センウセレト1世はイチタウイへ戻り、父アメンエムハト1世の敵討ちを行ったのち、第12王朝の第2代ファラオとして即位しました。

共同統治の制度は有効に機能したと言えるでしょう。

アメンエムハト1世の暗殺事件に関しては『アメンエムハト1世の教訓』及び『シヌへの物語』という文学作品に記されています。

アメンエムハト1世は息子に対し「臣下は無に等しく、尊敬など一切されなくてもよい」「臣下に対し、一人で近づいてはいけない」
「兄弟を信用してはならない」「友人などを作る必要は無い」とし、善き事も悪しきこともせず、自分の砦を築き堅固なる建物を再建し、人間と知り合う事には用心せよ、と説いたとされています。

アメンエムハト1世が実際にこの様な事を言っていたのか、息子が父親の死で人間不信となり、こうした考えに行き着いたのかは不明です。

アメンエムハト1世次代:センウセレト1世

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