名前 | 足利基氏 |
生没年 | 1340年ー1367年 |
時代 | 南北朝時代 |
一族 | 父:足利尊氏 母:赤橋登子 義父:足利直義 |
兄弟:竹若丸、義詮、基氏、鶴王 異母兄:足利直冬 | |
年表 | 1350年 鎌倉に下向 |
1354年 入間川に拠点を移す | |
1362年 畠山国清の乱 | |
1363年 宇都宮氏綱を降伏させる | |
コメント | 人格者だったと伝わる初代鎌倉公方 |
足利基氏は足利尊氏の子で、一時は足利直義の猶子となっています。
幼い頃の足利基氏は京都におり、兄の義詮は鎌倉にいました。
その為、兄の義詮とは顔も合わせる事が無かったわけです。
観応の擾乱が勃発し足利直義が失脚すると、義詮が京都に移動し、基氏が反対に鎌倉に向かいました。
これにより足利基氏は東国を支配する鎌倉公方となっていきます。
観応の擾乱では足利直義に鎌倉を譲り安房に移っています。
後に足利基氏は尊氏の意向もあり、入間川に本拠地を移しますが、畠山国清が乱を起こした頃に再び本拠地を鎌倉に戻しました。
尊氏死後に直義派の復帰が成されると、上杉憲顕の政治復帰を実現しようとしており、宇都宮氏綱と対立しています。
足利基氏は宇都宮氏綱の配下である芳賀禅可を破り、東国を安定させますが、1367年に急死しました。
足利基氏の誕生
足利基氏は暦応3年(1340年)に生まれた事が分かっています。
足利基氏の幼名は光王とするものもあれば、亀若とするものもありますが、今川了俊の難太平記では光王御料の名前で呼ばれています。
鎌倉幕府が滅亡したのは1333年であり、既に吉野では後醍醐天皇が南朝を開いており、南北朝時代に突入していました。
足利基氏の父親は足利尊氏、母は赤橋登子であり、同母兄として10歳年上の足利義詮がいました。
尚、足利基氏の1歳年上の兄として聖王がいたと常楽記にありますが、聖王は7歳で夭折しています。
さらに、異母兄で最年長の足利直冬もいました。
直義の猶子
1344年に師守記によると、直義の猶子となった男児が1344年深剃・着袴、学問始、乗馬始、弓始などの人生儀礼を催したとあります。
師守記には男児の名前が書かれていませんが、この男児こそが足利基氏ではないかとされています。
この男児が足利基氏であれば、5歳になる頃には足利直義の猶子になっていた事になるでしょう。
ただし、ここでいう男児というのが「足利直冬ではないか」とも考えられており、はっきりとしない部分でもあります。
足利直冬は足利直義の養子になった事は間違いないですが、深剃・着袴の儀礼は5歳くらいで行われるのが普通であり、この時の足利直冬は余裕で10歳を超えており、足利基氏が相応しいとも考えられています。
足利尊氏の子である足利基氏を直義の養子にした理由ですが、当時の室町幕府では足利尊氏と直義による二頭政治が行われており、尊氏は二頭政治を維持したいと考えており、実子である基氏を直義の猶子にしたとされています。
足利直義は側室を持たず正室の渋川氏との間に、1344年時点では子が出来なかった事もあり、尊氏にとってみれば実子の基氏を養子に出しやすかったのでしょう。
足利尊氏は二頭政治の維持のための関係強化を望んでいたわけです。
足利義詮は鎌倉にいたわけですが、足利直義が京都にいる基氏の育ての親となりました。
足利基氏は直義から多くの事を学んだのでしょう。
ただし、足利直義と渋川氏との間に如意丸が誕生すると、状況は変わってくる事になります。
鎌倉に下向
1350年に起きた観応の擾乱により足利直義が政務から引退すると、鎌倉にいた足利義詮が京都に入り直義のポジションに就きました。
足利義詮が京都にやって来たのには、足利尊氏が直義に実子の如意丸が誕生した事で「直義は後継者を如意丸にしたいのではないか」と疑い、義詮を後継者にする為に企んだ結果なのではないかとも考えられています。
足利尊氏は足利義詮への政権移譲を画策し、実際に義詮が政務を執る形で利益をえたともされているわけです。
足利義詮が京都に入ったのとは反対で、足利基氏が鎌倉に向かう事になります。
足利基氏は足利直義の猶子となっており、鎌倉に足利基氏が行ってしまうのは、直義にとってみれば痛手となりました。
この時の足利基氏は百騎ほどの武士たちを引き連れて鎌倉に向かったとあります。
足利義詮が京都に入り足利尊氏の後継者となり、足利基氏を東国武家社会の頂点とする体制を作る狙いがあったのでしょう。
ただし、足利基氏はまだまだ子供であり、政務を行える様な年齢ではなかった事で、上杉憲顕が補佐する事になります。
上杉憲顕は足利直義とかなり近しい立場の人間となります。
尚、足利義詮と足利基氏は兄弟でありながら面識がありませんでしたが、基氏が鎌倉にやってきた数日間は兄の義詮と接したのではないかと考えられています。
鎌倉での生活
観応の擾乱がで高師直の意見が通り、足利直義が出家すると高師直は一族の高師冬を鎌倉に向かわせ、足利基氏を上杉憲顕と高師冬で補佐する体制となります。
上杉憲顕は直義の代弁者であり、高師冬は高師直の代弁者だったと言えるでしょう。
足利直義が出家し引退したとは言え、直義を支持する者は多くバランスをとって二派で、足利基氏を支える体制を作りだしたとも言えるはずです。
足利基氏はまだ10歳の子供であり、ここで教育者が上杉憲顕に変わったとみる事も出来ます。
足利基氏は居館を大蔵の御所と定めています。
大蔵の御所は鎌倉時代からの足利氏の屋敷があった場所です。
上杉憲顕と高師冬の戦い
観応の擾乱で足利直義が南朝に降伏し挙兵すると、連動するかの様に上杉憲顕が上野で挙兵しました。
この時に、鎌倉にいた高師冬は足利基氏を連れ去り、鎌倉を出て相模国毛利荘湯山に向かう事になります。
上杉憲顕の鎌倉不在を狙って高師冬が仕掛けたのでしょう。
毛利荘湯山に向かう足利基氏の共には、水戸七郎、彦部次郎、屋代源蔵人、一色少輔、加子修理亮、中賀野加子宮内少輔らがいました。
しかし、彼らもまた尊氏派と直義派で構成されていたわけです。
ここで石塔義房などが水戸七郎、彦部次郎、屋代源蔵人らを急襲し湯山で殺害し、足利基氏は鎌倉に戻りました。
この事件が収束した直後から着到状や花押を据え始めており、元服前ながらも軍勢催促状を出すなど判始を行っています。
高師冬は甲斐に逃亡しますが、諏訪直頼や上杉方の諸将により須沢城を攻撃され命を落としました。
足利直義を迎え入れる
足利直義は高師直は打倒する事に成功しましたが、その後は幕府内での居場所を無くしました。
幕府内での孤立から足利直義は不安になり、北陸に移り関東に逃れたわけです。
ここで足利基氏は足利直義を迎え入れ、直義の共をした者達には感状まで発行しています。
足利基氏は足利直義を尊敬していたとも伝わっています。
足利基氏は直義を見習って村田舞楽は生涯で一度もみなかった話があり、基氏にとって直義は大きな存在だったのでしょう。
喜連川判鑑によると、足利基氏は尊氏と直義の不和を歎き和睦を実現させようとしますが、許されず鎌倉を去り安房で忍居した話が残っています。
足利尊氏は足利直義を討つために東海道を進撃し、薩埵山の戦いが勃発しますが、足利基氏は軍部にはいなかったようです。
しかし、直義派の桃井直常が宇都宮氏綱に敗れた事で、パワーバランスが崩れ足利尊氏の勝利が確定しました。
これにより観応の擾乱は終わりますが、足利直義は鎌倉で幽閉される事になります。
足利基氏の元服
足利基氏は観応三年(1352年)二月二十五日に元服しました。
元服式は実父である足利尊氏により執り行われています。
この時の足利基氏は、まだ13歳の子供でした。
さらに、足利基氏が元服してから間もなく、足利直義が亡くなる事になります。
足利尊氏と直義は兄弟であり、足利基氏は自分と兄の義詮との関係など深く考えさせられる事になったのではないでしょうか。
足利尊氏と直義は仲が良く直義が戦いに敗れれば尊氏が前に出て戦い、共に敗れれば九州に落ち延びるなどの強い関係でありながら、最後は争い弟の直義が命を落とした観応の擾乱に思う所は多かったはずです。
足利義詮と基氏の接点が兄弟でありながら、殆ど無かった事も基氏を悩ませたのかも知れません。
尚、今川了俊の難太平記によると、今川了俊の祖父が今川基氏であり、今川氏では「幸の有事」として喜ばれた話があります。
同年の8月に足利基氏は従五位下・左馬頭に叙任されました。
当時の人は征夷大将軍の足利尊氏の三男であった事から、基氏を「鎌倉三郎」の名で呼んでいます。
武蔵野合戦
南朝は近畿では足利義詮が守る京都を襲撃し、同時に関東で新田義興・義宗や北条時行が蜂起する壮大な戦略を立てています。
京都は楠木正儀らが京都を襲撃し、足利義詮は皇族も置き去りにして近江に退去しました。
関東では新田義興や北条時行ら南朝の武将に、旧直義派の上杉憲顕が加わり足利尊氏と戦う事になります。
足利尊氏は戦いに敗れ鎌倉を占拠されており、この時には足利基氏も家臣らに守られ鎌倉を退去し、武蔵国石浜にいた足利尊氏に合流しました。
しかし、足利尊氏は態勢を立て直し多くの武士が集まってきた事で形成は逆転し、最終的に鎌倉も奪還し武蔵野合戦に勝利しています。
足利基氏も鎌倉に帰還する事が出来ました。
武蔵野合戦は足利基氏にとってみれば「戦いに敗れればどうなるのか」という事を、生で学んだ事になるでしょう。
入間川に移る
足利尊氏は京都に戻る事になりますが、足利基氏は武蔵国入間川に向かいました。
足利尊氏は観応の擾乱での勝利に貢献した畠山国清を関東執事とし、足利基氏を補佐させています。
畠山国清の妹と足利基氏は婚姻関係となりました。
足利基氏は鎌倉公方のイメージが強いですが、最初に本拠地とした場所は入間川です。
足利尊氏が薩埵山体制を布いた結果として、関東の政治の中心地は入間川に変わりました。
入間川の足利基氏を警護するのは、平一揆の人々であり、侍所の高坂氏重が平一揆を統率する事になります。
入間川時代の足利基氏は「入間川殿」の名前で呼ばれています。
尚、足利尊氏が入間川に鎌倉公方の本拠地を定めた理由ですが、武蔵国内で地盤があり相模守護にもなっていた河越直重を牽制する意味があったとも考えられています。
他にも、反幕府勢力である新田氏、上杉氏、白旗一揆などに備える為などの説もあります。
尚、足利基氏が入間川に移動した時の年齢は、14歳だったとされています。
こうした事情から、入間川に在陣中は関東の中心人物は畠山国清だった事でしょう。
地盤強化
源威集などによると、足利基氏の入間川時代に京都から公家の豊原信秋、成秋が招かれたとあります。
豊原氏は武蔵国で所領も与えられ、足利基氏は笙の秘曲相伝を受けたとあります。
非曲相伝は非曲「荒序」が龍秋から尊氏へ伝えられ、尊氏から基氏に相伝されたとも言われています。
鎌倉では鶴岡八幡宮の浜大鳥居の棟上げが行われましたが、足利基氏が入間川にいた事で、儀式は略式化されました。
入間川時代の足利基氏は、後の鎌倉公方となる足場固めの時期でした。
足利尊氏が近畿に戻る時に、足利基氏に武士に恩賞を与える権利などを与えており、基氏はそれらを利用し行政などを拡大していく事になります。
寺社寄進行為なども行っており、宗教勢力との関係も深めました。
尚、足利基氏は1365年に般若心経を書写した記録も残っています。
畠山国清の乱
1358年に父親の足利尊氏が亡くなり、兄の義詮が京都で征夷大将軍となりました。
この時に南朝の新田義興が関東で不穏な動きを見せますが、江戸氏らを使った策で討ち取っています。
足利基氏は1359年に左兵衛督に任じられています。
足利義詮は執事の細川清氏の意見もあり、南朝への攻撃を画策しますが、足利基氏には兵を出す様に要請してきました。
一説によれば足利義詮は、足利基氏が自分にとって従順かどうか試したとも伝わっています。
足利基氏は執事の畠山国清に東国の武士を率いさせ関東に向かわせています。
しかし、畠山国清は近畿で細川清氏に接近するなどし、幕府内の諸将の間の対立もあり厭戦気分が拡がり、勝手に帰国してしまう東国武士が大量に出てしまったわけです。
細川清氏と結託し仁木義長の排除に動いたのも、武士たちにとっては印象が悪かったのでしょう。
畠山国清は帰国しますが、面子を潰された形になり、無断で帰国した武士たちの所領を没収しました。
土地を没収された千余人の武士たちは、畠山国清の罷免を足利基氏に求めています。
この時に東国武士たちは一味神水して罷免を求めたともしており、坂東武者たちも必死だったわけです。
足利基氏は仁木義長の追討に参加した事や東国武士の所領を没収した事について、畠山国清に申し開きする様に命じました。
さらに、畠山国清には弁明に時間が掛かる様であれば、追討軍を派遣するとしています。
足利基氏の強行な態度に対し、畠山国清は鎌倉を出奔し伊豆に向かい乱を起こす事になります。
足利基氏は畠山国清の罷免を決定しました。
これが畠山国清の乱です。
足利基氏は波多野高道や岩松直国らに追討を命じています。
伊豆では激戦となりますが、畠山国清は1362年に足利基氏に降伏し乱は終結しました。
足利基氏と上杉憲顕
畠山国清は没落に向かいますが、新たな関東執事として高師有が就任しています。
高師有は高師直の一族ではありましたが、観応の擾乱では足利直義に味方しました。
この頃になると足利基氏は鎌倉を本拠地としており、上杉憲顕を鎌倉に招いたわけです。
尊氏死後の足利義詮の政策もあり、直義派の政界復帰が進められており、こうした流れに足利基氏も従いました。
上杉憲顕は越後及び上野の守護となり、関東管領への道を歩む事になります。
宇都宮氏を討伐
上杉憲顕の厚遇に対し、越後・上野の守護を外された宇都宮氏綱は不満でした。
宇都宮氏綱は観応の擾乱で足利尊氏に味方した事で、戦後の薩埵山体制により厚遇された武将です。
宇都宮氏綱は謀反の兆候があり、足利基氏は宇都宮氏配下で反抗的な態度を取る芳賀禅可への攻撃を決断しました。
足利基氏は武蔵国に苦林野宿に本陣を置いています。
芳賀禅可は岩殿山に軍勢を集結され戦いとなりますが、岩殿山の戦いが行われる前夜に足利基氏は具足を装着したままで、御笛の練習をしていた話があります。
足利基氏には多分に文化人的な要素もあったのでしょう。
それでも、岩殿山の戦いでは日和見が多く足利基氏に従う者は少なかったとされています。
足利基氏は敵に狙い打ちされ危うい場面もありますが、配下の岩松直国の機転により救われました。
戦いの方は足利基氏の勝利に終わり、宇都宮氏打倒に向けて軍をさらに進めています。
足利基氏は本陣を下野国足利荘に移し軍を宇都宮に向けて進軍させました。
宇都宮氏綱は衆寡敵せずと判断し下野国小山天王宿に赴き、足利基氏に降伏しています。
上杉憲顕も足利基氏の軍に駆け付けました。
これにより宇都宮氏の政治権力が弱まり、鎌倉公方・足利基氏と関東管領・上杉憲顕の体制が出来上がる事になります。
さらに、1364年に世良田義政や梶原景安らを討伐し信濃に出兵するなど、鎌倉府の体制強化に繋げています。
理由は不明ですが、世良田義政は足利基氏を怒らしてしまい、攻撃を受けて討伐されたと伝わっています。
足利基氏の最後
足利基氏は軽い病に掛かりました。
その後に足利基氏は御教書に判を据えたり、円覚寺に赴いたわけです。
基氏だけではなく周囲の人々も軽い病気と考えていた節がありますが、病状は悪化し最後を迎えました。
足利基氏は1367年に死去しました。
これに先立つ1365年には母親の赤橋登子も亡くなっています。
足利基氏は突然死だったらしく、多くの人を驚かせています。
しかし、師守記によると死去する1カ月前には体調を悪化させていた様です。
足利基氏が春屋妙葩の推薦により義堂周信に帰依しており、死去する前日に義堂周信が見舞いました。
最後を悟った足利基氏は義堂周信に後事を託した話もあります。
翌日に足利基氏が死去した話を聞いた義堂周信は急いで公方居館に向かい、遺骸を触ったら温もりが残っていたと言います。
足利義詮は仏事を行っている最中に基氏の死を聞き、仏事を即時中断し自邸に戻った話があります。
足利基氏の葬礼は義堂周信が中心となり行われ、春屋妙葩から基氏に奉献されていた名硯(胴雀研)と共に鎌倉の瑞泉寺に葬られました。
足利基氏の死により京都では雑訴が7日間停止され、弔意が示されています。
さらに、京都等持寺で77日仏事が行われています。
尚、今川了俊の難太平記では義詮は自分(基氏)の事を敵対勢力だと考えていると思い、自ら死を祈り義詮に先だって自殺した説を掲載されています。
細川頼之記では当時の鎌倉では疫病が流行しており、これによって基氏は死んだと記録があります。
足利基氏は人格者だった
足利基氏が亡くなりますが、後継者の鎌倉公方には子の足利氏満が就任しました。
足利基氏の人格者ぶりは兄の義詮も認めており、足利氏満を後継者に選んだ話もあります。
それと同時に、佐々木道誉を関東に派遣し東国を監視させる計画もありました。
ただし、足利基氏が亡くなってから直ぐに義詮も亡くなってしまい、佐々木道誉は近畿の戻る事になります。
義堂周信は足利氏満に父親の基氏は「学問を好み賢人・高徳と交わり禅を談じ書を講じる」人物であり、見習う様に勧めました。
義堂周信は足利義満にも基氏の事を聞かれており「仏法、政道を好み」管弦、諸技芸も嗜んだと伝えた話があります。
足利基氏は人格が優れているとする話もありますが、武芸、芸術、禅など様々な分野でマルチな才能を発揮した文武両道の武将だと感じました。
室町幕府は同時期に足利義詮と基氏が亡くなった事で、足利義満を細川頼之が補佐し、足利氏満を上杉憲顕が補佐する時代に突入する事になります。
足利基氏の動画
足利基氏のゆっくり解説動画となっています。
この記事及び動画は「関東公方足利氏四代(扶桑社)」「南北朝武将列伝(戎光祥出版)」「南北朝内乱(吉川弘文館)」をベースに作成してあります。