名前 | 芳賀高名(はがたかな) |
別名 | 芳賀禅可 |
生没年 | 1291年ー1372年 |
時代 | 南北朝時代 |
主君 | 宇都宮氏綱 |
一族 | 父:芳賀高久 兄弟:岡本富高 |
子:高貞、高家 | |
年表 | 1363年 岩殿山合戦 |
コメント | 宇都宮氏の重臣 |
芳賀高名は芳賀禅可の名前でも有名な宇都宮氏の重臣です。
紀清両党の中核を成す清原氏に流れを汲む武将でもあります。
主君である宇都宮公綱は南朝を支持しますが、芳賀高名は宇都宮氏綱を擁立し北朝を支持しました。
しかし、結果として北朝が優勢となり宇都宮氏を隆盛に導く事になります。
薩埵山体制でも厚遇されますが、足利尊氏が亡くなると雲行きが怪しくなります。
鎌倉公方の足利基氏は上杉憲顕を室町幕府に復帰させようとしますが、これに反発したのが宇都宮氏綱です。
芳賀高名は岩殿山合戦で足利基氏に敗れると、勢力は衰え宇都宮家中でも以前のような権勢を振るう事は不可能となり失脚したと考えられています。
今回は宇都宮氏の家臣の筆頭とも呼べる立場となった芳賀高名を解説します。
尚、芳賀高名の肖像画が栃木県真岡市の海潮寺に存在しています。
海潮寺は芳賀氏の菩提寺でもあります。
宇都宮氏綱と芳賀禅可
宇都宮氏の第九代当主である宇都宮公綱は、後醍醐天皇の南朝を支持しました。
それに対し、宇都宮氏の重臣である芳賀高名は、嫡男の宇都宮氏綱を第十代の当主として擁立し、足利尊氏への支持を鮮明にしています。
芳賀高名は主君である宇都宮公綱と袂を分かつ結果となりました。
芳賀高名の宇都宮氏綱擁立は、南北朝時代に南朝が勝っても北朝が勝っても家を断絶させない為の手法に過ぎないとする評価もありますが、高い先見性を持っていたと評価される場合もあります。
結果で考えれば、芳賀高名の行動が宇都宮氏を救っており、宇都宮氏綱の擁立及び北朝支持は芳賀高名の功績と言えるでしょう。
飛山城の落城
芳賀高名は紀清両党の筆頭的な人物でもあり、宇都宮氏で大きな力を持っていました。
しかし、北朝に味方した事で、1341年に本拠地の飛山城を攻撃され落城しています。
重臣の芳賀高名が宇都宮氏家中に働き掛けた為か、直ぐに飛山城を奪い返しています。
薩埵山体制で厚遇
足利尊氏は観応の擾乱で足利直義を破ると、自分に味方した者達を優遇しました。
これが薩埵山体制であり、足利尊氏に味方した宇都宮氏も厚遇される事になります。
足利尊氏は畠山国清、河越直重、宇都宮氏綱を重用するだけではなく、宇都宮氏の臣下である芳賀高名も重用しています。
芳賀高名は宇都宮家中では尊氏派の筆頭とも呼べる立場であり、足利尊氏としても芳賀高名に影響力を持ち続けて欲しかったのでしょう。
主君の宇都宮氏綱は越後・上野の守護となりますが、守護代に任命されたのが芳賀氏であり、厚遇されたと言えます。
尚、宇都宮氏綱が越後・上野の二カ国の守護をし、芳賀氏が守護代を務めた時期が宇都宮氏の黄金期でもあります。
岩殿山合戦での敗北
足利尊氏が1358年に没すると、足利基氏は上杉憲顕を呼び戻し関東管領に就任させようと計画しました。
足利基氏は手始めに越後守護を宇都宮氏綱から、上杉憲顕に交代させています。
これに納得が出来なかったのが、芳賀高名です。
芳賀高名は宇都宮氏をリードし足利尊氏を支持し続けていたのに対し、上杉憲顕は観応の擾乱で足利直義を支持するなどしており、上杉憲顕の重用は納得できるものでは無かったのでしょう。
芳賀高名は1363年に上野国の板鼻で、鎌倉に向かう上杉憲顕を襲撃しようとしました。
この動きを察知した鎌倉公方の足利基氏は兵を繰り出し岩殿山合戦が起きますが、芳賀高名は惨敗しています。
宇都宮氏綱も監督責任を問われ、上野守護も没収されており、全ての守護職を失う結果となりました。
宇都宮氏綱は足利基氏に「芳賀高名の行方が分からない」と述べていますが、足利基氏がいる手前で芳賀高名を重用するわけにも行かず、芳賀高名は失脚したとも考えられています。
上杉憲顕を襲撃しようとしたり、足利基氏と対立したのは、芳賀高名の罪の部分になるでしょう。
芳賀高名の敗北により宇都宮氏は大きく勢力を後退させました。
その後の芳賀高名の行方は不明ですが、1372年に82歳で没したとも伝わっています。