名前 | 阿蘇惟澄(あそこれずみ) |
別名 | 恵良惟澄、小次郎 |
生没年 | 1309年ー1364年 |
一族 | 父:恵良惟種 弟:惟雄、惟賢、惟永 子:惟村、惟武 |
年表 | 1336年 多々良浜の戦い |
1361年 阿蘇大宮司に就任 | |
コメント | 南北朝最強の戦屋 |
阿蘇惟澄は阿蘇氏の庶子家の家柄ではありますが、南北朝時代に最も多くの合戦に参加したと言われる人物です。
南北朝最強の戦屋と読んでも差し支えないでしょう。
九州一の剛将と呼ばれた菊池武光とも何度も戦場に立っていますが、阿蘇惟澄は惣領の阿蘇惟時に振り回された人物でもあります。
阿蘇惟澄は懐良親王の九州征西府からは恩賞を認められないなどの問題もありましたが、最終的には南朝の阿蘇大宮司となっています。
しかし、晩年は息子の阿蘇惟村と阿蘇惟武の対立に悩まされました。
阿蘇惟澄の動画も作成してあり、記事の最下部から視聴する事が出来ます。
阿蘇惟澄の出自
阿蘇惟澄は阿蘇氏の庶子の系統であり、恵良を本拠地としました。
それ故に、恵良惟澄と呼ばれる事もあります。
阿蘇氏のトップは阿蘇大宮司家の阿蘇惟時であり、恵良、坂梨、上島などの庶子家がいた事が分かっています。
阿蘇惟澄は阿蘇氏の惣領である阿蘇惟時の娘を妻として迎えました。
阿蘇氏は源平合戦では平家方に与し鎌倉幕府により、阿蘇惟泰は解任されています。
肥後には菊池氏もいますが、菊池隆直も鎌倉幕府により解任されました。
こうした事情もあり、阿蘇本末社領全体の預所職には北条時政が任じられる事になります。
鎌倉時代の末期に鎮西探題の北条英時を菊池武時と共に、阿蘇惟直が襲撃しますが、大友氏や島津氏の協力を得られず返り討ちになっています。
さらに、北条高政が阿蘇大宮司館を放火し大きな損害を出しました。
こうした中で後醍醐天皇による倒幕が行われ、足利尊氏や新田義貞の寝返りにより鎌倉幕府は滅亡する事になります。
鎌倉幕府の出先機関である鎮西探題は大友氏や島津氏により滅ぼされていますが、菊池氏と共に阿蘇氏は功績を挙げる事が出来なかったわけです。
しかし、楠木正成が菊池氏を厚遇する様に後醍醐天皇に進言した事もあり、阿蘇氏も厚遇される事になります。
建武の新政が始まった事で、阿蘇氏は菊池氏に続く肥後第二の勢力となりました。
多々良浜の戦いと蛍丸
中先代の乱が勃発すると、足利尊氏が離脱しました。
後醍醐天皇は新田義貞に足利尊氏の討伐を行わせていますが、新田義貞は敗れ足利軍は近畿まで進軍する事になります。
北畠顕家の活躍もあり、朝廷軍は足利軍を破り、足利尊氏は九州に落ち延びて行く事になりました。
足利尊氏は少弐頼尚の支援により菊池武敏との間で、多々良浜の戦いが勃発しています。
多々良浜の戦いで阿蘇氏は菊池氏に味方しており、阿蘇惟澄も菊池氏側として参戦しました。
菊池氏は当主の菊池武重が近畿にいた事で不在であり、代わりに菊池武敏が軍を指揮する事になったわけです。
阿蘇惟澄も奮戦しましたが、菊池勢の多くの諸将が寝返ってしまった事で、大敗北を喫しました。
敗戦の中で阿蘇惟澄は太刀蛍丸を所持しており、激戦で刃こぼれした刀に蛍が群がり元通りになったと伝わっています。
尚、多々良浜の戦いで惣領家の阿蘇惟直と阿蘇惟成が戦死しています。
戦いに勝利した足利尊氏は大軍となり、湊川の戦いで楠木正成や新田義貞を破り、後醍醐天皇を比叡山に包囲しました。
この時に阿蘇氏の惣領である阿蘇惟時は京都におり、後醍醐天皇が比叡山に入った時には、三種の神器の一つである八咫鏡を運ぶという重責を任せられた話があります。
二つの阿蘇大宮司
足利尊氏は多々良浜の戦いの後に、阿蘇大宮司を取り込むために、自分にとって有利な人物を阿蘇大宮司にしようと考えました。
足利尊氏は市下八郎道恵に相談し、阿蘇氏の有力庶子である坂梨氏の孫熊丸を大宮司としました。
後に阿蘇氏の惣領である阿蘇惟時が帰国し、大宮司に復帰しており、阿蘇大宮司は北朝の孫熊丸と南朝の阿蘇惟時という二人の大宮司が誕生したわけです。
阿蘇惟澄は南朝の大宮司である阿蘇惟時を支持し、南朝側として戦っていく事になります。
歴戦の猛者
恵良惟澄軍忠状が残っており、阿蘇惟澄は戦いに明け暮れていた事が分かっています。
1336年
菊池武敏と今川助時の唐河の戦いで先駆け |
阿蘇郡南郷城で一色頼行の代官を破り数十人を討ち取る |
筑後に進軍し豊福原で先駆け。馬を切られる。 |
1337年
50人の兵で益城郡の砥用、小北、甲佐、堅志田を攻撃。 |
豊田荘を攻撃し少弐頼尚の家来・饗庭宜兼が率いる数百騎と交戦。阿蘇惟澄は馬を切られながらも徒武者となるも数十人を討ち取る。 |
菊池武重と共に犬塚原の戦いに挑み一色道猷を破る。一色頼行を戦死させる。 |
矢部山で数百人を討ち取る。 |
南郷城で坂梨子阿蘇惟長以下の数十人を討つ。 |
津守城を陥落させる。 |
守富荘に進軍し敵を破る。 |
(上記は全て南北朝武将列伝より抜粋)
この時期に阿蘇惟澄は奮戦しますが、幕府軍が優勢であり、阿蘇惟澄の奮戦も虚しく南朝方の勢力は衰え菊池と八代以外は室町幕府を支持する状態となってしまいました。
阿蘇惟澄がこれほどまでに戦ったのは、所領を守る為であり、正に一所懸命で戦いに挑んでいたわけです。
1338年
1338年になると少弐頼尚の軍勢が本拠地の甲佐城を攻撃してきました。
この時の阿蘇惟澄は不意を衝かれたのか、僅か三十騎ほどで城外に出た話があります。
しかし、阿蘇惟澄は直ぐに反撃を始め仁木義長の代官の甥である立田十郎及び数十人を討ったとあります。
さらに、日向国との堺にある野尻城を陥落させ、高知尾らが味方する事になりました。
小国郷で戦い玖珠、日田の豊後国人を迎撃するなどしています。
1336年から1338年までに幕府方の一色道猷や少弐頼尚の部下らと延々と戦い続けたと言えるでしょう。
尚、阿蘇惟澄は南朝の武将として活動を続けますが、忠義心ではなく自らの土地の維持や阿蘇氏の旧領回復の為に戦ったとされています。
阿蘇大宮司の統一
阿蘇大宮司が二つに分かれて戦っており、阿蘇惟澄及び惣領の阿蘇惟時は何度か北朝系阿蘇大宮司の孫熊丸の勢力と戦っていました。
1341年に南郷城を攻撃し、孫熊丸及び市下道恵を討ち取る事に成功しています。
これにより分裂した阿蘇大宮司を一つに纏め上げる事に成功しました。
しかし、孫熊丸という共通の敵がいなくなった事で、惣領家の阿蘇惟時と庶子家筆頭の阿蘇惟澄の間でいざこざが起きる様になります。
後村上天皇と懐良天皇の期待
興国三年(1342年)に懐良親王の一行が遂に薩摩に到着する事になります。
懐良親王から令旨副状が阿蘇惟時と阿蘇惟澄に出されますが、両方の文書が同じだった事が分かっています。
この事から、懐良親王は阿蘇氏の惣領である惟時と庶子家筆頭である惟澄に対し、同程度の期待感があった事が分かるはずです。
ただし、同時期に出された後村上天皇の綸旨を見ると阿蘇惟澄が1通しかないのに対し、阿蘇惟時は8通もあり、南朝の総本山では阿蘇惟時を重視していた事がわかります。
所領においても惟時が阿蘇本社領、三末社、肥後の熊牟田庄などの地頭職を認められているのに対し、阿蘇惟澄に認められたのは肥前曽根崎庄地頭職が与えられただけです。
後村上天皇は惣領の阿蘇惟時に期待しており、阿蘇惟澄と差をつけたのは明白でしょう。
懐良秦王からの期待
薩摩に上陸した懐良親王は薩摩国谷山を本拠地とし、九州で活動を始めますが、阿蘇氏へのアプローチを続ける事になります。
懐良親王は阿蘇惟時と阿蘇惟澄に働き掛けますが、阿蘇惟澄が一貫して南朝に与したのに対し、阿蘇惟澄は対照的な行動を取る様になります。
1343年に阿蘇惟時が幕府方として活動を始めました。
これにより阿蘇惟澄とは敵となり、阿蘇惟澄は益城郡の矢部城と抜きます。
翌年に懐良親王の側近である五条頼元が阿蘇惟澄に出した手紙が残っており「自分の事よりも阿蘇惟澄の事を大事に思っている」と書かれていました。
五条頼元からの手紙を見ると阿蘇惟澄に対し大きな配慮を示している事が分かるはずです。
懐良親王としても阿蘇惟澄を北朝に走らせる様な事はしたくはなかったのでしょう。
ただし、恩賞に関しては懐良親王が肥後に入ってから沙汰をするとあり、決めきれない部分もあった事が分かります。
こうした中で再び阿蘇惟時が幕府に寝返った情報もあり、阿蘇惟澄の重要度が増しました。
1345年には阿蘇惟澄に益城郡の砥用山と矢部山を兵粮料所として与えています。
阿蘇惟澄の不満
懐良親王は阿蘇惟澄を優遇した様にも見えますが、阿蘇惟時に対する配慮も怠りませんでした。
懐良側は阿蘇惟時に「二人の息子(阿蘇惟直、惟成)を失いながらも忠勤に励んできた事を述べ、味方になれば本領を安堵し新たな恩賞を与える」と約束しました。
それに対し、阿蘇惟澄に対しては「一同の時に沙汰する」とあり、恩賞の約束が出来ていません。
一同の時の沙汰というのは、皆が一同に会した時に恩賞を決定するという意味です。
こうした差を見ると、懐良親王としては阿蘇惟時を惣領として立てて行くものだった事が分かります。
庶子家とはいえ、南朝の為に働いてきた阿蘇惟澄にとっては、不満に感じる内容だったはずです。
阿蘇惟澄と菊池武光
正平元年(1346年)7月に菊池武光が阿蘇惟澄に自筆で書状を出した事が分かっています。
菊池武光と阿蘇惟澄は興国四年に向城で河尻、託摩で共闘した事も分かっており、実力はお互いに認め合っていたのでしょう。
菊池武光の書状には「身(菊池武光)が訴訟は、ただ同じ所望」とあり「社務(阿蘇惟時)の跡」を「かりそめの料所」としないよう、懐良親王の側近である五条頼元に何度も申し入れたとあります。
この時の菊池武光も阿蘇惟澄も惣領の立場を望んでおり、菊池武光は阿蘇氏の本領を懐良親王の料所とせず、阿蘇惟澄が受け継ぐべきだと主張した事にもなるはずです。
菊池武光が阿蘇惟澄に気を遣っているのが分かる文章となっています。
尚、これが菊池武光の発見されている最古の文書でもあります。
この時は菊池氏よりも阿蘇氏の方が勢いがあったともされています。
菊池氏では菊池武重がが亡くなると菊池武士が当主となりますが、菊池武士は武光の弟でした。
菊池武光は惣領になれず歯がゆい思いをしていたと思いますが、翌年に菊池武士が当主の座を降りた事で菊池氏の当主となりました。
阿蘇惟澄の惣領の座ですが、認められるのはまだ先の事となります。
阿蘇惟澄を支えた猛者
1347年になっても阿蘇氏惣領の阿蘇惟時は去就をはっきりとしませんでした。
懐良親王の配下である中院義定は、はっきりとしない阿蘇惟時に対し「うらめしく思う」とする言葉が残っています。
懐良親王の方では阿蘇氏に身を置こうと考えていたにも関わらず、はっきりとしない阿蘇惟時に苛立ちもあったのでしょう。
はっきりとしない阿蘇惟時に対し、阿蘇惟澄は南朝支持を明確に打ち出し、同年に少弐頼尚や大友孫次郎らの軍勢と戦い勝利しています。
阿蘇惟澄は勝利した翌月に、九州征西府に自らと配下の者達への恩賞を要求しています。
この時の阿蘇惟澄は自らを「阿蘇大宮司」と自称しており、惣領の阿蘇惟時の所領を望んでいます。
阿蘇惟澄と共に戦ってきた者達の多くは一族間での所領問題を抱えており、阿蘇惟澄が解決する事で求心力を得て来ました。
阿蘇惟澄が軍事力を維持する為には、配下の面倒をよく見て所領紛争を解決する必要があったわけです。
九州征西府に阿蘇大宮司及び恩賞を求めた阿蘇惟澄ですが、大部分は却下され肥後国内の要求も通る事はありませんでした。
料所として与えられたのは、日向や豊後であり恩賞に対する五条頼元の答えも「一同沙汰の時」と繰り返されただけでした。
当然ながら九州征西府の答えに阿蘇惟澄は不満であり、五条頼元には南朝の総本山である吉野朝廷への沙汰を願い出る事になります。
南朝の方では密かに阿蘇惟時にも接近し、阿蘇惟澄の軍忠は「神妙」ではあるが、阿蘇惟時には及ばないとしました。
さらに、阿蘇惟時が南朝に味方すれば「矢部、砥持」などの知行を認めるとしています。
矢部や砥持などは阿蘇惟澄が戦いで得た兵粮料所であり、九州征西府の阿蘇惟時を優遇する態度が見てとる事が出来ます。
懐良親王は薩摩を出て肥後に向かいますが、阿蘇惟時の態度は曖昧であり、懐良親王は菊池武光を頼りました。
筑後権守
1348年になると、阿蘇惟澄は筑後権守になった事が分かっています。
これまでの阿蘇惟澄は無官でしたが、筑後権守となりました。
ただし、阿蘇惟澄が望んだ社領の代替地に関しては、相応の土地を沙汰する様に懐良親王に命じたとあります。
懐良親王の九州征西府では阿蘇惟時を重視しており、結局のところ望んだような恩賞は得られなかったわけです。
阿蘇惟澄の起請文
こうした南朝の対応に対し阿蘇惟澄も諦めがついたのは、阿蘇惟時に対し「大殿(阿蘇惟時)に対し、不忠・腹黒い事はしない」と起請文を出す事になります。
阿蘇惟澄は伊勢大明神や阿蘇大明神などに誓っており、忠誠を誓うと宣言したわけです。
これにより阿蘇惟時が惣領だと認められ、阿蘇惟澄が庶子家筆頭として軍事活動を行う体制が出来上がった事になるでしょう。
ただし、この直後に室町幕府の鎮西管領・一色道猷が阿蘇社に願文を提出し、阿蘇惟時を調略しています。
五条頼元の元には阿蘇惟時が幕府に味方したなどの話も入ってきており、曖昧な態度を取り続ける阿蘇惟時に九州征西府は振り回される事になります。
九州征西府と阿蘇氏
貞和五年(1349年)になると、観応の擾乱が勃発し足利直義が失脚した事で、長門探題の足利直冬は九州に向かいました。
足利直冬は肥後に到着すると、阿蘇社に願文を収めました。
足利直冬が生き残る為には味方を増やす必要があり、阿蘇惟時に手紙を出したり、南朝に接近したりもしています。
こうした中で阿蘇惟時は1349年10月に後村上天皇から本領及び所領を安堵されました。
さらに、阿蘇惟澄に対し阿蘇惟時に異心を抱かない様にと説き伏せています。
阿蘇惟澄は日向守護を望んていましたが、九州征西府では代わりに吏務職を与えました。
阿蘇惟澄は日向方面への所領拡大を望んでおり、九州征西府としては阿蘇惟澄を宥める為に与えたと言えるでしょう。
九州征西府としてはあくまでも阿蘇氏は阿蘇惟時を頂点とし、阿蘇惟澄が支える形を理想としました。
対照的な二人
九州征西府では阿蘇惟時に、かなりの配慮をしましたが、阿蘇惟時は再び幕府に属したとする情報が懐良親王の元にもたらされました。
一方の阿蘇惟澄の方は1350年3月に、高知尾勢を主力とする軍で深川城の占拠した合志幸隆を破る手柄を挙げています。
さらに、阿蘇惟澄の攻勢は続き日向国高知尾荘の軍も撃破しました。
九州征西府にとって阿蘇惟時は曖昧な態度を繰り前しますが、阿蘇惟澄は征西府の主力として活躍し続けたわけです。
纏まりが悪い阿蘇氏に対し菊池氏は菊池武光がよく家中を取りまとめ、九州征西府最強の勢力にのし上がる事になります。
曖昧な態度を繰り返す阿蘇惟時
観応元年(1350年)7月に室町幕府の足利尊氏が阿蘇社領が安堵されました。
これは阿蘇惟時が北朝に靡いた事を指します。
しかし、その四か月後には阿蘇惟時は南朝を支持しました。
さらに、同じ月に足利直冬が阿蘇惟時に軍勢を出すように要請しており、阿蘇惟時が三者間で揺れ動いていた事が分かります。
こうした態度は九州征西府だけではなく、阿蘇惟澄も頭を悩ませた事でしょう。
阿蘇惟村が阿蘇氏の後継者に指名される
1351年2月に宇治惟澄譲状写が残っており、阿蘇惟時は阿蘇社などを丞丸(阿蘇惟村)に譲与した事が分かっています。
阿蘇惟澄と阿蘇惟時の娘の子が阿蘇惟村であり、阿蘇惟澄の子が阿蘇氏惣領に指名されたとも言えるでしょう。
阿蘇惟時が阿蘇惟村を後継者に指名したのは、一族の分裂を防ぐ為だったとも考えられています。
尚、最晩年の阿蘇惟時は南朝の武将として一色直氏を攻撃する為に、博多に赴くなどしました。
九州征西府と阿蘇惟澄の反発
存在感を無くす阿蘇惟澄
阿蘇惟時は高齢だった事もあり、1353年を過ぎたあたりで亡くなったと考えられています。
これを考えれば後継者は阿蘇惟澄の子である阿蘇惟村であり、後見人として阿蘇惟澄が実権を握る様に思うかも知れません。
しかし、実際には阿蘇惟時が没してから三年程、阿蘇惟澄の発給文書が姿を消す事になります。
この年に後村上天皇が五条頼元に宛てた文書が残っており「恵良らの悪行」とするものが残っています。
1351年頃から阿蘇惟澄の文書が減っている事を考えると、阿蘇惟澄が何かしらの問題を起こし求心力が低下している事が分かるはずです。
何があったのかは不明ですが、九州征西府と阿蘇惟澄の間で溝が出来た事は間違いないのでしょう。
さらに、1356年の「阿蘇惟澄申状案」によると、阿蘇惟時が亡くなってから阿蘇氏の知行が混乱しており、庶子の土田惟基が多くの所領を望むような状態となっていました。
方向性の違い
1351年頃から阿蘇惟澄と九州征西府の間で、断交が進んで行った事が明らかになっています。
阿蘇惟澄の勢力後退とは逆に菊池武光が勢力を伸ばしました。
阿蘇惟澄の軍事行動は阿蘇社領の維持や回復が目的であり、肥後国内や日向高知尾に出兵し活躍した事が分かっています。
それに対し、九州征西府では北伐などを行い九州制覇を目的としており、阿蘇惟澄との方向性の違いが指摘される所です。
さらに、阿蘇惟澄は多くの戦いに参戦しましたが、感情や恩賞の綸旨、令旨は貰いましたが、未だに所領は一カ所すら支配出来ていない現実がありました。
阿蘇惟澄の訴えを見ると恩賞問題が大半であり、不満が溜まって行ったのでしょう。
河尻広覚との争い
甲佐社領の守富床は阿蘇惟澄の兵粮料所でしたが、幕府方の河尻広覚が南朝へ寝返り、地頭職を阿蘇惟澄と分け合う事になりました。
しかし、河尻広覚は従わず、阿蘇惟澄は九州征西府に訴え出る事になります。
九州征西府では肥後国守護の菊池武光が河尻七郎による濫妨を禁止し、阿蘇惟澄に約束の地を引き渡すように命じました。
菊池武光の命令に対し河尻氏は反発し城郭を建造し、抵抗しました。
城郭は本格的な城ではなく、矢倉や堀を造る程度のものだったとされています。
最終的に河尻側で年貢の半分を阿蘇惟澄に支払う事になりましたが、実行に移される事はありませんでした。
こうした現実もあり、阿蘇惟澄は1359年8月に起きた九州の一大決戦でもある筑後川の戦いに参戦しなかったわけです。
阿蘇惟澄が阿蘇大宮司就任
1360年3月に阿蘇社で大規模な火災が起きました。
この時には阿蘇惟澄は一族の長老になっており、阿蘇社の再建が最優先事項となります。
阿蘇惟澄は九州征西府よりも阿蘇社の再建を重視しました。
当時の阿蘇大宮司は阿蘇惟澄の子の阿蘇惟村でしたが、阿蘇惟村は北朝を支持しました。
こうした事情もあり、懐良親王は令旨を発行し、1361年に阿蘇惟澄を阿蘇大宮司に就任させたわけです。
阿蘇惟澄にとってみれば、思わぬ形で阿蘇大宮司になったと言えるでしょう。
火災からの復興を第一として考える阿蘇惟澄も九州征西府に従った方が得策と考えたのか、受理しました。
阿蘇大宮司となった阿蘇惟澄は宇土道光や名和顕興らに対し、押領停止を求める訴訟を起こしています。
しかし、名和顕興の代官が抵抗するなどもあり、中々認められませんでした。
九州征西府からの命令があっても土地の引き渡しは極めて難しかったわけです。
南朝と北朝の阿蘇大宮司
阿蘇惟澄は南朝から認められた阿蘇大宮司でしたが、息子の阿蘇惟村は北朝から認められた阿蘇大宮司となっています。
延文二年(1361年)に足利義詮は、阿蘇惟澄を肥後国守護に任命する事を条件に、寝返り工作を行った事が分かっています。
当時は阿蘇惟村が大友氏時と連携するなどしており、足利義詮としては勝機もあったのでしょう。
しかし、阿蘇惟澄は足利義詮の誘いを断り、南朝の武将として残る事になります。
阿蘇惟澄に断られた足利義詮は、阿蘇惟村を北朝の肥後国守護としました。
阿蘇大宮司は依然として南朝と北朝に分裂したままだったわけです。
九州征西府の全盛期
1361年に菊池武光は肥前に進出し、少弐氏の軍勢を打ち破り懐良親王らは大宰府を占拠しました。
ここにおいて、九州南朝における全盛期となったわけです。
この九州征西府にとって重要な北伐に対し、菊池武光が阿蘇惟澄に対し書状を送った事が分かっています。
菊池武光は阿蘇惟澄に守富荘の年貢に関する事を述べており、戦時中にも関わらず阿蘇惟澄に気を遣っている事が分かっています。
菊池武光としては過去の戦友である阿蘇惟澄に何らかの思いもあったのでしょう。
ここから先の阿蘇惟澄に対する資料は殆ど残ってはいない状態です。
阿蘇惟澄の最後と後継者問題
正平十九年(1364年)7月に、阿蘇惟澄は自らの死期が近い事を悟りました。
阿蘇惟澄は自らの後継者を室町幕府に与する阿蘇惟村としたわけです。
阿蘇惟澄は南朝の武将ですが、後継者の阿蘇惟澄が北朝の武将という不可思議な状態となりました。
阿蘇惟澄は「阿蘇惟村が南朝を支持する武将になった事で後継者とする」と述べています。
勿論、阿蘇惟村は南朝の武将にはなっていませんが、続いて阿蘇惟武が反発したと言いますが、阿蘇惟武が反発したのは一族の長老たちがそそのかしたからだとしました。
もし仮に阿蘇惟武が過ちを認め阿蘇惟村に協力するのであれば、扶持を与えて欲しいと述べています。
阿蘇惟澄としては息子の阿蘇惟村と阿蘇惟武が南朝の武将として一致団結し、事に当たって欲しいと願ったのでしょう。
尚、この時の阿蘇惟澄は脳溢血の後遺症で体が不自由となり、手印を押すとあり、晩年の阿蘇惟澄は体が不自由だった事も分かっています。
同年に阿蘇惟澄は没しますが、息子たちが協力する事はありませんでした。
阿蘇惟澄も願いも虚しく阿蘇惟村は北朝として戦い続け、阿蘇惟武は南朝の武将として戦い続けています。
二つの阿蘇大宮司は分裂したままであり、1392年に南北朝時代が終焉しても、阿蘇氏は分裂状態が続きました。
阿蘇氏が一つになるのは、宝徳三年(1451年)まで待たねばならなくなります。
阿蘇惟澄の動画
阿蘇惟澄のゆっくり解説動画です
この記事及び動画は戎光祥出版の南北朝武将列伝北朝編をベースに作成しました。