室町時代

菊池武重は西へ東へと各地を奮戦

2025年1月26日

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宮下悠史

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名前菊池武重
生没年1307年?ー1341年?
時代鎌倉時代、南北朝時代
一族父:菊池武時 兄弟:頼隆、隆舜、武茂、武澄、武吉、武豊、武敏、武光、武隆、武士、武尚、武義、武世、武方
年表1336年 箱根竹ノ下の戦い
コメント菊池槍の考案者とも伝わっている

菊池武重は菊池武時の子であり、菊池氏第十三代の当主になった人物です。

父親の菊池武時鎮西探題との戦いで敗死すると後継者になりました。

菊池武重は敗れはしましたが、箱根竹ノ下の戦いにも参加しています。

多々良浜の戦いでは後醍醐天皇に従い近畿にいた為に、弟の菊池武敏が軍を指揮しますが、戦いには敗れています。

後に九州に戻ると各地を転戦し菊池家の勢いを盛り返しました。

尚、菊池槍を考案したのは菊池武重だとする説もあります。

菊池槍は日本で最初に使われた槍とも言われている状態です。

博多からの帰還

鎮西探題の北条英時により菊池武時は博多に召集され、嫡子の菊池武重も同行する事になりました。

父親の菊池武時は鎮西探題襲撃を画策し、密約があった少弐氏や大友氏に呼びかけますが、少弐や大友は時期尚早と考え逆に北条英時に味方しています。

菊池武時は少弐貞経や大友貞宗が味方しなかった事で、死を覚悟し後継者の菊池武重を本国である肥後に還しました。

菊池武重は後事を託されており、父親の武時とは今生の別れとなります。

菊池武重は菊池頼隆や覚勝らと勇敢に戦いましたが、最後は討ち取られています。

建武政権からの破格の恩賞

菊池武重は父が戦死した事により、菊池氏の当主となります。

鎮西探題は少弐氏や大友氏らに攻められて滅亡しており、後醍醐天皇による建武の新政が始まりました。

倒幕の大功臣である楠木正成が菊池氏の忠義を高く評価した事で、後醍醐天皇は肥後守に任命されました。

弟の菊池武茂や菊池武敏も官位を賜わり菊池氏では破格の恩賞を手にしたわけです。

ただし、菊池氏は鎮西探題を滅ぼす戦いには参加していなかった様で、九州の武士たちからは妬みを買ったともされています。

これ以降の菊池氏では後醍醐天皇及び南朝の為に行動する事になります。

箱根竹ノ下の戦い

1335年に中先代の乱が勃発しますが、足利尊氏が鎮圧し論功行賞を始めた事で後醍醐天皇は激怒しました。

後醍醐天皇は新田義貞を総大将とする軍を鎌倉に出しますが、この軍の中には菊池武重もいました。

尚、新田義貞の軍の中には父親の仇である大友貞宗の子である大友貞載もおり、複雑な気分だったのかも知れません。

新田軍は最初は足利軍に対し優勢に戦いを進めていましたが、箱根竹ノ下の戦いで脇屋義助の部下が裏切り戦いには敗れています。

菊池武重は撤退戦となりますが、この時に足利軍を撃退する武器として菊池槍(菊池千本槍)が誕生したとも言われています。

因みに、大友貞載は朝廷軍から離脱しますが、結城親光が暗殺しました。

当主不在の多々良浜の戦い

足利軍が京都に雪崩れ込むと朝廷軍は不利でしたが、奥州の北畠顕家の援軍により盛り返し、足利尊氏は九州で再起を計りました。

少弐頼尚が足利尊氏を迎えに行ったタイミングで菊池武敏が軍を率いて少弐貞経を急襲しており、父の仇を討っています。

足利尊氏は九州入りしますが、菊池武重は本国には帰らず、後醍醐天皇の側にいた様です。

足利尊氏は多々良浜の戦いで菊池氏と戦いますが、菊池軍を指揮したのは菊池武敏となります。

菊池武重が近畿にいた事で、菊池軍は菊池武敏が指揮を執ったのでしょう。

多々良浜の戦いは味方の裏切りもあり、菊池氏が敗れていますが、菊池武重が近畿にいた事で菊池家の兵力が分散されていたのも敗戦の理由になるはずです。

勢いを取り戻す

足利尊氏は後醍醐天皇と和睦しますが、花山院に幽閉してしまいました。

この時に菊池武重も囚われの身となりますが、脱出し九州の本国まで帰還する事になります。

菊池武重は九州に戻りますが、味方になってくれる勢力は肥後の阿蘇氏がいる位であり、苦戦が予想されました。

しかし、菊池武重は犬塚原の戦いで一色道猷を破り、弟の菊池武豊が筑後方面に進出し成果を挙げています。

他にも、合志氏の竹迫城を陥落させるなど勢力を盛り返しました。

菊池武重の活躍により菊池氏は勢いを取り戻しますが、中央にいた少弐頼尚が肥後の守護に任じられ九州に戻って来る事になります。

少弐頼尚の帰国により九州の南北朝の行方は厳しさを増しました。

日本最古の血判書

1338年の7月25日付で「菊池武重起請文」が発見されています。

菊池武重起請文では当主と庶家の代表者による重臣会議の決定について定めました。

菊池武重起請文では惣領と一族による合議とに決定権が分離しており、決して菊池武重の独裁では無かった事が分かります。

菊池武重は菊池武重起請文の中で寄合衆内談事を制定し、菊池氏内の動揺を抑える狙いがあったとも考えられています。

菊池武重は後醍醐天皇の南朝を支持していましたが、菊池氏の中には室町幕府及び北朝を支持するべきだと考える者もおり、菊池一族を纏めるのが狙いだったはずです。

尚、菊池武重起請文が日本最古の血判書だとされています。

菊池武重の最後

菊池武重の生没年は不明ですが、1341年頃に亡くなっていたとされています。

死因に関しては分かっていません。

菊池武重が亡くなると菊池武士が後継者となりますが、菊池武士は短期間で当主の座を降りると菊池武光が当主となります。

菊池武光の時代に菊池氏では懐良秦王を肥後に招き征西府の時代が訪れました。

菊池氏では新たなる時代が訪れ九州制覇に向かい邁進する事になります。

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