室町時代

千種忠顕は父親に勘当されるも朝廷への忠義を尽くした

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宮下悠史

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名前千種忠顕
生没年生年不明ー1336年
時代鎌倉時代ー建武の新政
主君後醍醐天皇
一族父:六条有忠 兄:六条有光
子:千種具顕、長忠、忠方、顕経
コメント官軍総大将として六波羅館を陥落させた

千種忠顕は後醍醐天皇の倒幕において活躍した公家です。

父親の六条有忠や兄の有光は大覚寺統嫡流である邦良親王に仕えますが、千種忠顕は後醍醐天皇に仕えました。

千種忠顕は父親の六条有忠に疎まれ勘当されてしまいますが、後醍醐天皇に仕え続け戦いに敗れた後醍醐天皇と共に隠岐にまで同行しています。

その後に朝廷軍の大将として六波羅探題を陥落させるなどの武功があり、楠木正成、名和長年、結城親光と共に後醍醐天皇の寵臣として三木一草と呼ばれる様になります。

しかし、建武政権では活躍する事が出来ず、足利尊氏直義との戦いで命を落としました。

千種忠顕は奢侈を好み周囲からは顰蹙を買った話がありますが、太平記でも千種忠顕の忠義は評価されており、惜しい人物としました。

千種忠顕は能力的に問題視される事はありますが、忠臣だった事は間違いないでしょう。

千種忠顕の動画も作成してあり、この記事の最下部から視聴する事が出来ます。

千種忠顕の出自

千種忠顕は村上源氏の久我家の庶流である六条家の出身です。

千種忠顕の父親は権大納言六条有忠であり、兄に六条有光がいます。

鎌倉幕府後期の朝廷は大覚寺統と持明院統による両統迭立が行われ、大覚寺統の後宇多天皇に信任されたのが祖父の六条有房だと言えるでしょう。

ここで、父親の六条有忠や兄の有光は邦良親王に仕えたのに対し、千種忠顕は後醍醐天皇に仕えています。

父から勘当

私生活の悪さ

千種忠顕ですが、笠懸や犬追物を好み博打や淫乱に耽る生活をしていました。

さらに、学問を怠るなど生活態度を問題視されます。

三国志の蜀の皇帝となる劉備も「本を読まず犬、馬、音楽、綺麗な服装」を好んだとあり、似た様なものだったのかも知れません。

千種忠顕の荒廃した私生活を問題視したのが、父親の六条有忠であり、遂には勘当してしまいまいた。

父親の六条有忠も千種忠顕を注意しましたが、改善されず勘当してしまったのでしょう。

花園天皇の日記にも六条有忠が千種忠顕を勘当した話が書かれており、六条有忠が千種忠顕を勘当したのは事実なのでしょう。

この顛末を見る限りでは、千種忠顕は「出来損ないの放蕩息子」と言った感じに見えるはずです。

後醍醐天皇と邦良親王

邦良親王が皇太子だった頃に、大覚寺統は治天の君が後宇多天皇、天皇が後醍醐天皇、皇太子が邦良親王と全て大覚寺統で固められていました。

次の皇太子が持明院統の量仁親王(光厳天皇)でしたが、大覚寺統に勢いがあったわけです。

ただし、大覚寺統内も盤石ではなく後醍醐天皇と邦良親王の関係がギクシャクしていました。

花園天皇の日記にも後醍醐天皇と邦良親王の中の悪さが記録されており、二人が仲違いしているのは有名だったのでしょう。

先にも述べた様に、六条家では父親の六条有忠と兄の有光が邦良親王に仕えているのに対し、千種忠顕は後醍醐天皇に仕えていました。

後宇多天皇は後醍醐天皇を中継ぎの天皇として考えていた様ではありますが、後醍醐天皇は自分の子に皇位を継承させたいと考えており、皇太子の邦良親王と仲が悪かったとも考えられています。

六条有忠としては後宇多上皇ー後二条天皇ー邦良親王の大覚寺統嫡流を支持しており、後醍醐天皇に接近する息子の千種忠顕が許せなかったのでしょう。

それと同時に後醍醐天皇からしてみれば、邦良親王に仕える六条有忠と有光は政敵であり、面白くない相手と考えており後醍醐天皇と六条有忠との関係も険悪だったのかも知れません。

隠岐への配流

千種忠顕は1324年に従五位下に叙任され、後に従五位上・左少将となった事が分かっています。

1331年に後醍醐天皇が笠置山で挙兵し元弘の乱が勃発すると、千種忠顕も後醍醐天皇に従いました。

しかし、後醍醐天皇や宗良親王らと共に千種忠顕も捕虜となり六波羅探題に移されています。

六波羅に移された後に、佐々木道誉に預けられますが、後醍醐天皇の隠岐への配流が決定しました。

佐々木道誉の元にいた千種忠顕ですが、後醍醐天皇に従い世尊寺行房や阿野廉子と共に隠岐へ行く事になります。

後醍醐天皇は天皇を退位した事になり、持明院統の光厳天皇が即位しました。

千種忠顕の歌

千種忠顕は後醍醐天皇と共に配流地の隠岐に向かいますが、美作の雲清寺に到着しました。

ここで千種忠顕は花の枝を折り、次の詩を残したとされています。

※戎光祥出版 南北朝武将列伝南朝編より

かはらぬを形見となして 咲く花の都はなほもしのばれぞする

京都を去る事になり寂しい気持ちを歌にし後醍醐天皇に奏上したわけです。

さらに、千種忠顕は護送役で鎌倉幕府の御家人である小山五郎左衛門尉にも同じ花の枝を渡し「辛い旅の中でも貴方の厚情を嬉しく思う」とする歌を残しています。

幕府役人である小山五郎左衛門尉にも感謝の気持ちを述べる所は、千種忠顕の人柄になるのでしょう。

尚、千種忠顕が歌を詠んだ雲清寺から比較的近い場所に、院庄があり児島高徳が漢詩を彫り越王勾践と范蠡を例に後醍醐天皇を励ました話があります。

千種忠顕は隠岐でも『みやこ思ふ夢ぢやいまのね覚までいく暁のへだてきぬらん』という歌を詠んでいます。

千種忠顕は太平記には豪奢な生活が描かれており、この時の年齢も20歳ほどだったと考えられており、隠岐での生活は退屈に感じたのでしょう。

後醍醐天皇の倒幕の念

千種忠顕や世尊寺行房らと仏前に備える為の樒の枝を折り参上する姿を後醍醐天皇が見てしまいました。

公家で京都にいれば不自由なく暮らしていた千種忠顕や世尊寺行房らが不自由な生活をしている姿を見た後醍醐天皇は倒幕の念を強くした話があります。

天皇親政を理想とする後醍醐天皇ですが、千種忠顕や世尊寺行房の使用人の様な生活を見て「公家のやる事ではない」と強く思ったのでしょう。

隠岐で後醍醐天皇や千種忠顕らは臥薪嘗胆の生活を強いられたわけです。

後醍醐天皇の宸筆願文

後醍醐天皇は宸筆願文(天皇が自ら書いた手紙)を鰐淵寺の僧侶である頼源に与えています。

この時に、後醍醐天皇の宸筆願文を持って行ったのが、千種忠顕だとされているわけです。

後醍醐天皇の宸筆願文の中で「所願が速やかに成就したら、根本薬師堂の造営を急いで成し遂げる」と書かれており、所願は当然ながら鎌倉幕府の打倒となります。

後醍醐天皇の宸筆願文の内容を考えれば、危険を孕んでおり信頼できる千種忠顕に預けたのでしょう。

尚、鰐淵寺の頼源は後年の六波羅探題攻撃にも参加しており、千種忠顕は役目を果たしました。

隠岐を脱出

後醍醐天皇は隠岐に流されましたが、護良親王楠木正成が近畿で挙兵しました。

幕府軍は寡兵の楠木正成に翻弄され苦しみますが、こうした中で後醍醐天皇が隠岐を脱出し名和長年の協力を得る事になります。

ここにおいて後醍醐天皇の挙兵し伯耆で船上山の戦いが勃発しました。

この時に千種忠顕も隠岐を脱出し、船上山にまで行き従四位下となり蔵人頭・左中将に任じられています。

船上山に寡兵で籠る後醍醐天皇に対し隠岐守護の佐々木清高ら幕府軍が押し寄せますが、名和長年が果敢に戦い撃退しました。

名和長年の勝利を近隣の武士たちが聞きつけると、後醍醐天皇に味方する者が多く現れ後醍醐天皇に倒幕の流れが来たわけです。

この時に出雲守護の塩冶高貞も後醍醐天皇に味方しました。

六波羅探題を陥落させる

播磨の赤松円心も息子の赤松則祐の説得により後醍醐天皇に味方しました。

赤松円心は赤松則祐と共に京都を攻めますが、苦しい戦いを強いられる事になります。

この頃の後醍醐天皇は兵力に余裕があり赤松円心の援軍として、千種忠顕を選任しています。

千種忠顕は後醍醐天皇の命により、山陰・山陽の大将となり京都に進撃しました。

太平記によると伯耆を出発した時の千種忠顕の軍勢は千余騎でしたが、因幡、美作、丹後、丹波、若狭の兵が集まり20万騎を超えたといいます。

ただし、太平記は軍記物語であり誇張が多いとされ、本当に20万もの軍勢を千種忠顕が率いたとは信じられていません。

しかし、日置政高、石井末忠らの軍忠状に証判を押し熊谷直経に参戦を促すなど、官軍の実質的な総大将として京都を目指したわけです。

さらに、太平記では後醍醐天皇の実子となっている静尊法親王と千種忠顕は合流したとあります。

千種忠顕の軍に加わった静尊法親王は亀山天皇の子ともされており、はっきりとしない部分があります。

千種忠顕は静尊法親王を上将軍としており、権威としたのでしょう。

功を焦る千種忠顕

太平記によると京都に進撃した千種忠顕ですが、大軍を頼みとし赤松円心や殿法印良忠らと連携せず、単独で攻撃を仕掛けた事になっています。

この時の太平記での描写では千種忠顕は功を焦り単独での京都攻撃を考えた事になっています。

しかし、赤松円心の様な猛者を差し置いての攻撃は裏目に出て六波羅探題の反撃により敗れました。

千種忠顕と児島高徳

千種忠顕は峰堂に撤退し児島高徳に意見を求める事になります。

児島高徳は峰堂の守備の硬さを頼りに踏みとどまって戦う様に進言しました。

千種忠顕は児島高徳の言葉を聴き入れ抗戦の構えを見せますが、夜になると気が代わり敵の夜襲を恐れ錦の御旗や鎧直垂を棄て軽装になり八幡まで逃げ延びています。

千種忠顕が逃げてしまった事を知った児島高徳は千種忠顕を「臆病者」や「崖に落ちて死んだ方がよい」など酷評しました。

しかし、児島高徳も撤退しないわけにはいかず錦の御旗などを拾い上げてから撤退しています。

これらを見ると千種忠顕の酷さが分かる気がしますが、千種忠顕は六波羅探題の軍を相手に善戦し京に侵攻するも、増援軍により敗れて撤退したとも考えらています。

児島高徳は先に述べた様に後醍醐天皇を漢詩で励ました忠臣として太平記では描かれており、児島高徳をよく見せる為の創作だったのではないかともされています。

朝廷軍総大将・千種忠顕

千種忠顕の京都への侵攻は失敗に終わりましたが、まだ軍は崩壊したわけではなく、楠木正成も千早城で奮戦していました。

こうした中で鎌倉幕府の首脳部は名越高家と足利尊氏の両名を近畿への援軍として派遣しています。

名越高家は戦死し足利尊氏が朝廷軍に寝返った事で、均衡が崩れ朝廷軍が優勢となっていきました。

後醍醐天皇は朝廷軍に入り功績を挙げた武士などへの恩賞や降伏して来た者達への処置を決めた勅制軍法条々を千種忠顕に与えました。

勅制軍法条々は幕府を破った後に、どの様に処置するのか決めたものであり、後醍醐天皇が千種忠顕に渡したという事は、後醍醐天皇が千種忠顕を朝廷軍の総大将だと認めた事にもなるはずです。

千種忠顕が後醍醐天皇の信任を得ていた事だけは間違いないのでしょう。

六波羅探題陥落

足利軍は篠村を出発し大江山を越え内野から京都を目指し、千種忠顕は竹田・伏見から京都を攻撃しました。

千種忠顕は六波羅館を包囲し、次の様に述べています。

※戎光祥出版 南北朝武将列伝南朝編より

千種忠顕「時間をかけてせめていると、千早城攻撃中の幕府軍が我が軍を背後から攻撃してくるだろう。

皆心を一つにして、短時間で攻め落とせ」

千種忠顕は全軍を奮い立たせ、六波羅探題の北条仲時・北条時益は、持明院統の後伏見上皇、花園上皇、光厳天皇を連れて鎌倉を目指しました。

六波羅探題の北条時益が討たれ、北条仲時は近江で自刃し後伏見上皇、花園上皇、光厳天皇は京都に連れ戻される事になります。

一連の流れを見ると六波羅探題を滅ぼす決起になったのは足利尊氏の寝返りでしたが、六波羅探題を陥落させたのは千種忠顕の手柄だったと言えるでしょう。

論功行賞

後醍醐天皇は京都に還幸し建武の新政が始まりました。

倒幕の功臣である千種忠顕は最初に正四位下となりますが、続いて従三位・弾正大弼となり、さらに参議にもなりました。

他にも知行国として佐渡、丹波、但馬の参加国が与えられたと考えられており、他にも日向の新納院と救仁郷が与えられた事がわかっています。

所領に関しては全国に数十カ所を持ち大きな権勢を手に入れています。

この時点で千種忠顕の席次は兄の六条有光よりも上となったわけです。

千種忠顕は後醍醐天皇という勝馬に乗ったと言えるでしょう。

栄華を極める

千種忠顕は楠木正成、結城親光、名和長年と共に後醍醐天皇の寵臣となり「三木一草」と呼ばれる事になります。

莫大な恩賞を手にした千種忠顕は毎晩の様に酒宴を開き、宴会の参列した公家などは300人を超える程だったとあります。

さらに、豪勢な料理を出し一回の宴会の費用が1万千でも足りなかったと伝わっています。

他にも千種忠顕は肥えた馬を60頭ほど飼い宴会が終わると犬追物や小鷹狩をして日が暮れるまで過ごしたとあります。

千種忠顕は派手な衣装に身を包むなどしました。

こうした千種忠顕の奢侈を極めた様な生活を見た人々から多くの顰蹙を買った話まで伝わっています。

太平記では千種忠顕をみて「孔子の戒めを恥じないのは情けない」とする評価を与えました。

この時の千種忠顕は20歳くらいだと考えられ、若気の至りという部分もあるのでしょう。

活躍出来ない千種忠顕

建武政権での千種忠顕は決して酒ばかり飲んでいたわけではなく、蔵人頭として後醍醐天皇の綸旨を発行するなどしています。

原因は不明ですが、千種忠顕は蔵人頭を辞任し、雑訴決断所の職員となりました。

雑訴決断所は4番制であり、千種忠顕は3番の山陰道・中山道を担当する職員となります。

後に雑訴決断所は8番制となりますが、この時から千種忠顕の名前が見られなくなります。

楠木正成や名和長年など記録所、恩賞方、武者所に名前が見られますが、千種忠顕の名前は一切出て来ません。

この時期に、千種忠顕が何をしていたのかはイマイチ不明です。

千種忠顕が建武政権において名前が見られなくなったのは、行政能力の欠如があったからではないかとされています。

尚、千種忠顕は公家であり、建武政権には軍事を専門とする武士の足利尊氏や新田義貞もおり、千種忠顕は建武政権内で居場所を失ったともされています。

敗戦により出家

1335年に北条時行による中先代の乱が勃発しました。

足利尊氏は鎌倉にいた足利直義の救援の為に無断で東国に向かい、そのまま建武政権から離脱しています。

後醍醐天皇は鎌倉の足利尊氏討伐に新田義貞を派兵しますが、新田義貞は箱根竹ノ下の戦いで敗れました。

新田義貞を破った足利尊氏は軍を近畿に進める事になります。

足利軍は勢多に足利直義と高師泰を向かわせ、朝廷軍は結城親光、名和長年と共に千種忠顕も配置しました。

建武政権内で活躍出来なかった千種忠顕に捲土重来のチャンスが回って来た事になるでしょう。

尚、足利軍は淀に畠山高国、芋洗に吉見頼隆を派遣し、足利尊氏の本隊は宇治から京都を目指す事になります。

朝廷軍は宇治に楠木正成、山崎を脇屋義助に任せ新田義貞は大渡に布陣しました。

朝廷軍と足利軍の雌雄を決する戦いに千種忠顕は参加していたわけです。

瀬田は重要拠点であり千種忠顕は奮戦しますが、最終的には足利軍に敗れました。

この直後に千種忠顕は出家しており、敗戦の責任をとっての出家だったと考えれています。

千種忠顕の最後

近畿での朝廷軍と足利軍の戦いは前半戦は足利軍が優勢であり、後醍醐天皇の比叡山に避難するなどしています。

しかし、奥州の北畠顕家が近畿に到着すると流れが変わり、足利尊氏は九州にまで落ち延びました。

足利尊氏は短期間で九州から復活し、湊川の戦いでは新田義貞と楠木正成を破っています。

後醍醐天皇は再び比叡山に避難し、朝廷軍と激戦を繰り広げる事になります。

この時に足利直義は西坂本から比叡山を攻撃し、雲母坂で千種忠顕が守る展開となりました。

太平記には足利軍が声を張り上げ雲母坂を登り、尊良親王が頼りとする千種忠顕と坊門雅忠が三百騎ほどで防戦したとあります。

この戦いで千種忠顕は奮戦しますが、足利軍に背後を取られ軍は全滅し敗れた事になっています。

雲母坂の戦いが千種忠顕の最後となったわけです。

太平記では奢侈だったり児島高徳に批判されたりと散々な扱いの千種忠顕ですが、討死したシーンでは「忠節は比類なく、天皇も頼りとし一命を軽んじ戦死したのは惜しい事だ」と述べています。

太平記でも千種忠顕の忠義心は高く評価されており、その死を悼みました。

千種忠顕の動画

千種忠顕のゆっくり解説動画となっております。

この記事及び動画は戎光祥出版の南北朝武将列伝南朝編をベースに作成しました。

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