名前 | 張戩(ちょうせん) |
生没年 | 不明 |
時代 | 三国志、後漢末期 |
コメント | 幼くして賊の人質となる |
張戩は張承の子であり、張趙の子である張陵と共に、賊に捕らえられた記録があります。
張戩は正史三国志にも名前が登場する人物であり、実在したと考えられます。
しかし、賊と張範の話が出来過ぎていると考える人もおり、張戩と張陵が捕らえられた話は、真実なのか?と疑う人もいます。
尚、張戩に関しては賊に捕らえられた事位しか記述がなく、分かっている事は極端に少ないと言えます。
張戩が成人になってから、どの様な官職に就いたなども記録がありません。
山東の賊に捕らえられる
張範伝の記述によれば、張戩と張陵は山東の賊に捕らえられたとあります。
張戩の父親である張承や張範の足跡を辿ってみると、最初は名士として故郷の司隸河内郡修武県にいました。
その後に董卓が実権を握ると、張範と張承は揚州に行き、張承が袁術を諫めた話があります。
後に曹操が後に張範を召し出そうとしますが、この時には彭城に移動していた事が分かっており、山東にいた事となります。
それらを考慮すると、張戩が賊に捕らえられてしまったのは、張範の一族が彭城にいた頃だった様に感じました。
張範は名士層の人間であり、本人は蓄財を好みませんでしたが、賊にとってみれば財産目的で、張戩や張陵を捕えてしまった可能性もあります。
張陵が釈放される
張範は張戩と張陵が賊の捕虜になった事を知ると、直ぐに賊の元に駆け付けました。
賊は張範がやって来ると、張範の子である張陵を直ぐに釈放しています。
張範に関しては老荘思考を好むなど無欲の賢人と言ってもよい人物であり、賊たちも張範の子であれば、捕えておいてもメリットは少ないと考えた可能性もあるはずです。
ここで張範が意外な事を言い出します。
張範は自分の子よりも張戩の方が幼い事を理由に、賊に対し人質を張歆から張陵に変えて欲しいと懇願しました。
賊の方でも、張範の優しさに思う所があったのか、張戩も釈放したわけです。
これにより、張陵だけではなく張戩も釈放されました。
張範の優しさが賊に通じた逸話となっています。
尚、この後に張戩がどの様な人生を送ったのかは不明です。
ただし、晋に仕えた人物で張承の孫とされる張邵なる人物の確認が出来ています。
それを考えると張邵の父親が張戩の可能性も考えられるはずです。
因みに、張邵は晋に仕えますが、楊駿と共に処刑されました。
人質の話
呂布と曹操が争っていた頃に、夏侯惇が賊に捕らえられてしまいました。
この時に韓浩が涙を流し夏侯惇の命など関係なしに、賊に突撃を仕掛けた話があったわけです。
賊は韓浩が斬り込みを掛けると急いで夏侯惇を釈放し、詫びましたが韓浩は賊を皆殺しにしました。
曹操は韓浩の態度を絶賛し、韓浩の行動を元に法律を作った事で、人質を取る者が激減した話があります。
張戩を人質に取った賊も、この話は知っていた様にも感じています。
張範との交渉が下手に長引けば、官軍がやって来て皆殺しにされる事は目に見えており、早めの解決を望み張戩を釈放した可能性もある様に思いました。
しかし、三国志の時代には社会が混乱し、人さらいをする様な人もかなりいたのでしょう。
特に名士層の人間らは標的にされやすかったのかも知れません。