その他 三国志 魏(三国志)

韓浩(かんこう)は屯田制を提言し政治・軍事に活躍

2022年5月8日

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名前韓浩(かんこう) 字:元嗣
生没年不明
時代三国志、後漢末期
勢力王匡→曹操
一族配偶者:杜氏 養子:韓栄
年表207年 柳城の戦い
215年 張魯討伐
コメント史実では有能な人物だが、三国志演義では凡将として描かれている

韓浩の字は元嗣であり、司隷河内郡を出身だとされています。

韓浩は正史三国志に登場する人物であり、史実では棗祗と共に曹操に屯田制を提言した人物です。

韓浩は夏侯惇の部下だった時に、捕虜となった夏侯惇を見捨てるが如く、敵を攻撃した苛烈さも持ち合わせています。

史実の韓浩を見ると、文武において活躍した人物だと言えるでしょう。

しかし、三国志演義が出来上がると荊州四英傑韓玄の弟という設定にされ、博望坡の戦いでは夏侯惇の部下として出陣しますが、徐庶が推挙した諸葛亮の策略により破れました。

さらに、漢中争奪戦では黄忠厳顔のコンビに、張郃や夏侯尚と共に敗れ、最後は黄忠に斬られるなど情けない役柄となっています。

韓浩の史実の実績を考えれば魯粛周瑜、曹真、王朗などと並び、三国志演義被害者の会に入っても良い人物だと言えるでしょう。

史実の韓浩は董卓も評価した程の実力があり、軍事と政治の両輪において活躍した人物です。

 

董卓が配下にしたいと願う

後漢末期になると寒冷化などの影響もあり食料が不足し、各地で社会不安となります。

こうした中で張角が黄巾の乱を起こすなどもありました。

韓浩が住んでいた県は山林地帯に隣接しており、山賊が多数出没する地域だったと伝わっています。

安定しない地域において、韓浩は徒党を集めて県の護衛を行った話があり、精力的な人間だった事が分かります。

黄巾の乱が終わると霊帝が崩御し、宦官が大将軍の何進を殺害しました。

何進の部下だった袁紹が宦官を皆殺しにしますが、最終的に少帝と陳留王(後に献帝)を保護した董卓が、政局を制し実権を握りました。

董卓に対して多くの者が反発し、反董卓連合軍を結成しますが、この時に河内太守の王匡が韓浩を従事に取り立てています。

王匡は韓浩の山賊に対する怯まない姿勢などを評価した結果なのでしょう。

王匡により従事となった韓浩は軍兵を引き連れ、盟津を目指し董卓と対峙する事となります。

 

袁術に認められる

韓浩が有能だという話しは董卓の耳にも入っていた様で、董卓は韓浩の舅にあたる杜陽を捕え、韓浩を懐柔しようとしました。

董卓は韓浩を配下にしようとしたわけですが、韓浩は董卓の要請を却下しています。

韓浩のこうした態度を、高く評価したのが袁術です。

袁術は韓浩の態度が見事だと考え、騎都尉に任命しました。

袁術と言えば後年に皇帝を僭称し、仲王朝を建てるなど、嫌われ者のイメージがあるかも知れません。

しかし、正史三国志に袁術は「漢気があった」とする記述もあり、こうした袁術の性格が韓浩を評価したのでしょう。

 

夏侯惇捕虜事件

夏侯惇が捕虜となる

曹操配下の夏侯惇は韓浩の名声を耳にすると、韓浩との会見を要請しました。

夏侯惇は韓浩と話してみると、高く評価し兵を統率させ、征伐のお供をさせたとあります。

西暦194年頃になると董卓は呂布や王允により倒されますが、呂布や王允も賈詡の進言を受けた李傕や郭汜により敗れました。

呂布は放浪するわけですが、曹操配下の陳宮や張邈が呂布を兗州に招き入れた事で、曹操は窮地に陥ります。

この時に韓浩の主君である夏侯惇が、呂布に味方する者達により、捕虜となる事件が発生しました。

韓浩は夏侯惇の代わりに、軍を指揮する事となります。

この時の韓浩は毅然としていた様で、次の記述が存在します。

「夏侯惇の将である韓浩は兵士を指揮し、夏侯惇の軍営の門に駐屯した。

軍吏や諸将を招集すると、武装をとかして部署に配置し『勝手に動いてはならぬ』と命じた。

これにより軍は落ち着きを取り戻した」

韓浩の見事な判断力だと言えるでしょう。

さらに、韓浩は人質となっていた夏侯惇の元まで赴きました。

 

敵を斬り捨てる

夏侯惇を捕虜にした一団は、調子に乗ったのか、夏侯惇の部下に対して財宝を寄こせと脅迫してきたわけです。

これに夏侯惇配下の兵士は、恐れおののいたようですが、韓浩が次の様に述べました。

韓浩「お前ら極悪人は、夏侯惇将軍を捕虜にした。お前たちは、こんな事をして生き延びられると思っているのか。

儂は、命令されて賊を討伐している、夏侯惇将軍の命と引き換えに、お前たちを助けるわけには行かない」

韓浩は敵の兵士に向かって、宣戦布告したわけです。

さらに、韓浩は夏侯惇に向かって涙を流し、次の様にも言っています。

韓浩「これは国法になるわけですから、どうしようもありません・・・」

そして、韓浩は敵の兵士に向い、果敢に攻撃を仕掛けたわけです。

この時に夏侯惇が「馬鹿やめろ!」と思ったのか、「それでこそ我が配下!」と思ったのか、潔く「仕方なし」と思ったのかは、記録がないので分かっていません。

しかし、韓浩の行動に驚いたのは敵の兵士であり「自分たちは生活品が欲しかっただけ」だとか、適当な言い訳をして夏侯惇を差し出しました。

ここで、韓浩は敵を許す事なく、全員斬り捨てています。

一歩間違えれば、夏侯惇は斬られていたわけですが、韓浩によって何とか夏侯惇は救出されました。

尚、この後に夏侯惇と韓浩が不和になった話もないので、夏侯惇は韓浩の行為を正当なものとしてみた可能性が高い様に思います。

九死に一生を得ると言うのは、この時の夏侯惇を指す様にも感じています。

 

曹操が韓浩を絶賛

曹操は夏侯惇と韓浩の経緯を聞くと韓浩を絶賛した話があります。

さらに、曹操は韓浩の取った行動は、法律にするべきだと述べ「人質になった者も人質を取った者も両方共討て」と法律に示されたとされています。

曹操が法律を定められた事で、人質を取る輩が激減したそうです。

この話は韓浩が果断な決断が出来る事や、法律を遵守する性格だった事も表しているのでしょう。

 

人質に関して

正史三国志の注釈で孫盛が人質に関して述べており、後漢王朝の最初期である光武帝の時代に、陰貴人の同母弟が誘拐された事件が起きます。

この時に役人は人質に対して考慮する事を許されない為に、そのまま盗賊を攻撃しようとし、盗賊は人質を殺害してしまった話があります。

この事から孫盛は「人質がいても賊を討つのは昔からの法則」だと述べています。

しかし、孫盛によれば後漢の安帝や順帝以降は、政治や教育が腐敗し衰えた事で、王公であろうと構わず人質にしてしまうケースが増大してしまったと記録されていました。

これにより官吏たちは捕らえられた王公の身の安全を計るために、法律を遵守する事が出来なくなったとあります。

曹操は韓浩がこうした慣例を光武帝の時代に戻し、果断に対処し賊を斬り捨てた事を評価したと、孫盛は述べています。

 

屯田制を進言

韓浩の業績の中で最も大きいのが、棗祗と共に屯田制を進言した事でしょう。

屯田制の中には民屯と軍屯がありますが、韓浩が進言したのは民屯だとされています。

この当時は流民が多く発生しており、耕作放棄地もかなり多くあったわけです。

韓浩や棗祗は曹操に屯田制を進言し、曹操の領内での生産性を多いに向上させる事になりました。

曹操は韓浩から屯田に関しての提案があると、非常に喜び韓浩を護軍に昇進させた話があります。

曹操の屯田制に関しては、任峻や国淵などが大きな実績を挙げた話があります。

因みに、屯田と言えば諸葛亮が五丈原の戦いなどで行わせた話がありますが、諸葛亮が行わせたのは兵士が行った事から軍屯と呼ばれるのが普通です。

 

柳城の戦い

曹操は官渡の戦いで袁紹を破り、袁紹が亡くなると袁譚、袁尚の後継者争いに付け込み、北方の大半を制圧しました。

袁家の生き残りである袁煕と袁尚は烏桓の地に逃げますが、曹操は張遼、郭嘉、韓浩などと共に、北方遠征を行っています。

この時に白狼山の戦いなどが勃発しました。

曹操は烏桓の本拠地は柳城に攻撃を仕掛けようとしますが、これを危ぶんだのが領軍の史渙です。

史渙は既に烏桓の敵地奥深くまで侵入しており、計画が万全でない事を理由に、韓浩と共に曹操を諫めようと考えました。

史渙の意見に対し、韓浩は次の様に述べています。

韓浩「現在の軍は強力であり、武威は四海を覆う程である。

戦えば必ず勝っているし、攻めれば必ず得られるものがあり、思い通りにならなかった事はない。

この機会を生かし天下の患いを失くさなければ、後に憂いとなり戻って来るであろう。

曹公(曹操)は神の如き武勇を持っているし、行動を起こされる時は思慮深く考えておられる。

私とあなた(史渙)は中軍の指導者であり、あえて自分から士気を削ぐ必要はない」

韓浩は慎重派の史渙に対し、曹操に従い積極的に攻めるべきだと考えていた事になります。

この時の判断は史渙よりも韓浩の方が正しかった様であり、曹操は攻撃を積極的に仕掛け張遼、張郃や虎豹騎を率いた曹純の活躍もあり、大勝利に終わりました。

曹操の軍は烏桓の蹋頓を斬り、逃げた袁煕と袁尚の首は、公孫康が曹操の元に届けています。

戦いが終わると曹操は官号を中護軍に変え、韓浩の配下に長史と司馬を設置した話があります。

因みに、韓浩に意見した史渙に関してですが、正史三国志に次の記述が存在します。

「沛国の史渙は、韓浩と共に忠義と武名により名声があった」

史渙も韓浩に匹敵する程に評価されていた事になります。

尚、韓浩と史渙は近衛隊の指揮官となり、列侯に封じられた記録も残っています。

 

 

曹操の魏公就任

西暦213年に曹操は魏公に就任しました。

曹操は形式上とはいえ、魏公就任を辞退しましたが、配下の中で曹操が魏公に就任すべきだと声を挙げた者の記録が残っています。

この中に「中領軍万歳亭侯・韓浩」の名があり、韓浩が曹操の魏公就任を受諾すべきだとする立場を取っていた事が分かります。

尚、曹操の魏公就任を受諾すべきだと、声を挙げた人物の一覧は下記の様になっています。

荀攸鍾繇涼茂毛玠劉勲劉若
夏侯惇王忠劉展鮮于輔程昱賈詡
董昭薛洪董蒙王粲傅巽王選
袁渙王朗張承任藩杜襲曹洪
韓浩曹仁王図万潜謝奐袁覇

 

 

張魯征伐

215年に曹操は漢中に割拠する張魯征伐を行いました。

曹操の張魯征伐に韓浩も同行した話があります。

曹操の張魯討伐では張魯配下の張衛が交戦派となり、陽平関の戦いなども起こりますが、張魯は最終的に閻圃の進言を聞いた上で降伏しています。

曹操の張魯討伐では韓浩はどの様な活躍をしたのかは不明です。

しかし、張魯が降伏し漢中を取った後の記述として、次のものがあります。

「論者たちは韓浩の智謀は辺境地帯を安ずるに、十分な資質を持っていると主張し、

韓浩を残し諸軍の総司令官にするべきだと意見した」

多くの人々が韓浩の能力を認めており、漢中の軍を敢行に統括する様に述べたわけです。

しかし、曹操は次の様に述べました。

曹操「儂の傍に護軍(韓浩)がいないわけにはいかない」

曹操はその様に述べると、韓浩を連れて本拠地に戻る決断をします。

曹操は漢中の軍事を杜襲に統括させ、夏侯淵と張郃を守備に残し帰還しました。

この時に司馬懿などは蜀を攻略する様に述べた話しもありますが、「隴を得て蜀を望む」の言葉を残し、曹操は韓浩と共に漢中を後にしたわけです。

三國志演義では、この後に劉備配下の黄忠厳顔の老将タッグを老人だと侮り舐めて対峙した張郃、夏侯尚、韓浩の話があります。

しかし、実際の韓浩は曹操と共に漢中を去っており、史実とは言えないでしょう。

ただし、法正や黄忠の活躍により、夏侯淵が定軍山の戦いで破れ漢中を失った事は史実です。

 

韓浩の最後

韓浩の最後ですが、下記の記述が存在します。

「韓浩が死去すると、曹操は韓浩の死を悼み残念がった。

韓浩には子が無かった事から、養子の韓栄が後を継いだ」

上記の記述から、韓浩が曹操の存命中に亡くなり、子が無く養子の韓栄がいた事も分かるはずです。

尚、韓浩は215年の張魯討伐までは生存確認が出来ますし、曹操が亡くなったのは220年となります。

韓浩の死は215年から220年の間の出来事だったのでしょう。

215年の段階では、韓浩が漢中の責任者になる話も出ており、元気だった様に感じます。

それを考えると、突然死や急に体調が悪くなり亡くなった可能性も十分にあります。

韓浩の最後の描写などは記録には残っていません。

因みに、韓浩の後継者となった韓栄ですが、記録が残っておらず、どの様な人物だったのかは不明です。

韓浩の能力値

三国志14統率69武力71知力68政治87魅力64

 

 

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

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