三国志 魏(三国志)

張承(後漢)は強さよりも徳義だと袁術に述べ不興を買う

2022年6月10日

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名前張承(ちょうしょう) 字:公先
生没年不明
時代三国志、後漢末期
勢力曹操
一族祖父:張歆 父:張延 兄:張範 弟:張昭 子:張戩 孫:張邵
画像三国志(コーエーテクモゲームス

張承の字は公先であり、兄に張範がおり、弟には張昭がいます。

司隸河内郡修武県の出身です。

祖父の張歆は司徒、父の張延は大尉と後漢王朝の高官を歴任し、バリバリの名士層の人間と言ってもよいでしょう。

尚、三国志に詳しい人であれば、既にお分かりかと思いますが、孫策や孫権に仕えた呉の重鎮に張昭(字は子布)がおり、張昭(子布)の子も名前が張承(字は仲嗣)となっています。

後漢末期に活躍した張承と弟の張昭は、呉にも張昭、張承が親子で同名でおり、非常にややこしい状態です。

ここで紹介するのは袁術を諫めたり、曹操に仕えた張承(公先)です。

張承は正史三国志にも登場し、張範伝に比較的詳しい記述があります。

因みに、張承の子の張戩は張範の子である張陵と共に、賊の捕虜になってしまった事がありますが、張範により救出された話があります。

 

反董卓連合に参加せず

張承の兄の張範は無欲な賢人と言った人物であり、仕官しようとはしませんでした。

それに対し、張承は方正として召し出され、議郎となり伊闕都尉となっています。

袁紹が宦官らを皆殺しにした後に、少帝と陳留王(後の献帝)を保護した董卓が実権を握りますが、名士層には人気がなく反董卓連合が結成されました。

この時に、張承も自ら兵を集めて董卓打倒に動こうとしますが、弟の張昭に諫められた事で、官を辞し密かに郷里に帰ったわけです。

ここで張承と兄の張範は合流し、後に戦乱を避けて兄と共に揚州に移動しました。

揚州の寿春には袁術がおり、野心を見せていたわけです。

 

袁術との会談

強さよりも徳義

張承の兄の張範は老荘思想を好み名が通っていた事から、袁術は張範を招き傘下に加えようとしました。

しかし、張範は袁術の野心を見抜いていたのか、病気と称して行かず、代わりに張承を挨拶に派遣しています。

袁術は張承と面会するや、次の様に述べています。

袁術「昔、周の王室が衰えた時には、斉の桓公や晋の文公の覇業があったと聞いている。

秦が政治に失敗した時には、漢が後継となり政治を担った。

今の私は領地の広さや士卒、民衆の多さを利用し、斉の桓公の好運と漢の高祖の実績を真似たいと思うが、考えを聞かせて欲しい」

袁術は春秋時代に活躍した斉の桓公や晋の文公などの様な春秋五覇と同じ役割をしたいと述べ、さらにはを滅ぼし楚漢戦争で項羽を破った劉邦の様になりたいと述べた事になります。

袁術の野心的な発言だとも言えます。

それに対し、張承は次の様に答えました。

張承「私は徳義が問題であり、強さが問題だとは思いません。

徳をしっかりと働かせ天下の要求に応える事が出来れば、平民の出身でも功業を打ち立てる事が出来ます。

しかし、分不相応な真似をし、時勢に逆らい民衆にそっぽを向かれれば、誰が功業を打ち立てる事が出来るのでしょうか」

袁術は張承の話を聞くと不機嫌になったとあります。

袁術は袁紹が劉虞を皇帝に立てるのには反対しましたが、漢王朝に対し忠義の心があったわけではなく、自分で皇帝になりたがっていました。

張承の言葉は、袁術が世の中のリーダーになるのに反対した言葉だったとも言えます。

張承が「徳」を持ち出す辺りは、名士層の人間らし儒教の教えを強く持っていたのでしょう。

しかし、ここで袁術と張承の問いは終わりません。

 

曹操について述べる

張範伝の記述によると、この時の曹操は冀州を討伐しようとしていたと述べています。

袁術は張承に曹操の事に関しても訪ねてみる事にしました。

袁術「今の曹公(曹操)は疲弊した兵卒数千を以って、10万の軍勢に敵対するつもりでいる。

力量を考えていないと言うべきであるが、其方(張承)の考えを教えて欲しい」

袁術から見れば、曹操は無謀な事を行っていると考えたのでしょう。

これに対し、張承は次の様に述べました。

張承「漢の徳は衰えてはいますが、天命が尽きたわけではありません。

今の曹公は天子を抱え天下に号令しております。

百万の軍勢と対峙しても問題はないでしょう」

張承は袁術に対し、曹操が献帝を擁している事を理由に、問題ないと述べたわけです。

勿論、袁術は曹操を嫌っていたはずであり、不愉快になったとあります。

張承はこれで袁術との会談を打ち上げて、辞去する事になります。

兄の張範も張承も袁術に仕える事はありませんでした。

尚、この話から曹操が冀州を討伐しようとしていた事が分かります。

しかし、袁術が存命中は曹操は呂布や袁術らとの戦に明け暮れており、袁紹と本格的には対立していません。

曹操と袁紹が本格的に対峙する様になったのは、袁紹が公孫瓚を滅ぼし北方を平定し、曹操が呂布や袁術を破ってからです。

この部分の真相はどうなっているのか?に関してはよく分かっていません。

 

曹操に仕える

張承は後年に曹操に仕える事になりますが、次の記述が正史三国志にあります。

※正史三国志・張範伝の記述

「太祖(曹操)は冀州を平定すると張範に使者を派遣して迎えた」

曹操が冀州を平定したとあるので、袁譚を滅ぼし南皮を取った頃の話となる様にも感じました。

曹操は張承の兄である張範を、臣下に迎えようとしたのでしょう。

しかし、この時の張範は彭城にいましたが病気であり、弟の張承を曹操の元に派遣しました。

曹操は張承を諫議大夫に任命した話があり、張承も漢の献帝を擁している曹操であれば、仕えても良いと思っていたのでしょう。

尚、兄の張範も後に曹操に仕えており、邴原と共に曹操が出征した時には留守を任された話があります。

因みに、曹操は213年に献帝から魏公を打診され、受諾する様に連名で臣下が名前を書き示した話があります。

この中に「祭酒の張承」と書かれており、張承が曹操の魏公就任に賛成の立場を取っていた事が分かるはずです。

尚、下記が曹操の魏公就任に対し賛同した人物の一覧となっています。

荀攸鍾繇涼茂毛玠劉勲劉若
夏侯惇王忠劉展鮮于輔程昱賈詡
董昭薛洪董蒙王粲傅巽王選
袁渙王朗張承任藩杜襲曹洪
韓浩曹仁王図万潜謝奐袁覇

 

張承の最後

張承は曹操に仕えると、丞相参軍祭酒に任命され趙郡の太守をしていた話があります。

この時に、張承の評判は良かった様で「政治・強化が行き渡った」と記述されていました。

曹操は西征する時に、張承を呼び寄せる事にしたとあります。

この時に、曹操は張承を参軍事に任命しました。

張承は曹操の招きに応じて、長安まで来ますが、病気で亡くなったとあります。

これが張承が亡くなった時の記述です。

尚、西暦213年までは張承が健在だった事も分かっており、漢中の張魯討伐の直前で、張承は体調を崩し亡くなってしまった様に感じました。

 

張承の能力値

三国志14統率23武力18知力73政治70魅力67

 

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

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