その他 三国志

張闓(ちょうがい)は欲に目が眩み曹嵩を殺害したのか

2022年6月7日

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名前張闓(ちょうがい)
生没年不明
時代三国志、後漢末期
勢力陶謙袁術
年表194年? 曹嵩を殺害
画像三国志(コーエーテクモゲームス)

張闓は正史三国志の本文には登場しません。

しかし、裴松之が残した注釈・呉書に名前が登場します。

張闓は陶謙の命令で曹操の父親である曹嵩と弟の曹徳を護送しました。

しかし、張闓は金品に目が眩み曹嵩を殺害してしまったわけです。

張闓は逃げますが、怒った曹操は責任は陶謙にあるとし、徐州に侵攻し大虐殺を行っています。

今回は徐州大虐殺の原因を作ってしまった張闓を解説します。

尚、三国志演義では張闓は黄巾賊の残党となっていますが、正史三国志には張闓が黄巾党のメンバーだった記述もありませんし、黄巾の乱に参加した記録もありません。

ただし、曹嵩の財宝を奪って逃げてしまう辺りは、品の良い人間ではなかったはずです。

曹嵩を護送

曹操は兗州に地盤を築くと父親の曹嵩や、弟の曹徳を自分の本拠地に迎えようと考えます。

曹嵩は董卓の時代に琅邪に避難していました。

「世語」の記述によれば、曹操は泰山太守の応劭に護衛を命じ、曹嵩を迎えようとしたわけです。

呉書によれば、徐州牧の陶謙も曹操に協力しようと考えたのか、張闓に二百の騎兵を預け曹嵩を護送させています。

陶謙としてみれば、張闓を曹嵩の護衛として派遣する事で、曹操に対して恩を売っておきたかったのかも知れません。

ここで陶謙に誤算が生じます。

曹家は後漢の高級官僚の家柄でもあり、多くの財産を曹嵩は持ち家財と共に曹操の元に向かっていました。

曹嵩の財産が多かった事が、張闓を刺激する事になります。

曹嵩を殺害

張闓は曹嵩に合流し、兗州を目指す事になります。

曹嵩と行動を共にする事になった張闓ですが、事件を引き起こしてしまいます。

正史三国志の注釈・呉書に、次の記述が存在します。

※呉書の記述

張闓は泰山郡の華県と費県の間で曹嵩を殺害し財物を奪った

曹嵩は大量の家財を抱えていた事で、張闓の欲望を刺激してしまい、事件を起こしてしまったのでしょう。

張闓にしても、財物だけを取り、この場所に留まるわけにはいかないと思ったのか、次の記述が呉書にあります。

※呉書の記述

張闓はそのまま淮南に逃げた

張闓は手下と共に、淮南に逃げたと言う事なのでしょう。

張闓は陶謙の命令に反した事をしており、徐州に帰る訳にも行かず、兗州に行けば曹操がおり、北方の袁紹と曹操の仲は当時は比較的良好だったと考えられます。

曹操は過去に袁術を匡亭の戦いで破り、袁術は寿春を本拠地として活動していました。

さらに、この頃は陶謙と袁術の仲にも亀裂が入っており、張闓としてみれば、袁術がいる淮南が一番安全だと考えたのでしょう。

余談ですが、曹嵩を曹操の元に届ける予定であった泰山太守の応劭は曹嵩が殺害された後に、曹操の元に行くわけにも行かないと判断したのか、袁紹の元に身を寄せました。

張闓は陶謙の命令で曹嵩を殺害した!?

曹嵩の殺害に関しては、呉書だけではなく世語にも記述があります。

世語には張闓の名前は出て来ませんが、陶謙が千の兵を使い曹嵩を捕えた事になっています。

呉書の記述を考えると、世語の曹嵩を捕えたのは張闓になるはずです。

世語の記述では、その後に陶謙の兵は曹徳を最初に殺害し、次に曹嵩を殺害しました。

曹嵩の殺害に関しては、世語と呉書で食い違いがあり、どちらが正しいのか分からない状態です。

因みに、陳寿が書いた正史三国志では「曹嵩は陶謙により殺害された」とあり、陶謙の手の者が殺した事になっています。

どの説が正しいのか分かりませんが、張闓が陶謙の命令で曹嵩を殺害した可能性も十分にあると感じました。

袁術に仕える

正史三国志の張闓の記述は、曹嵩を殺害した時点で途切れています。

しかし、後漢書には張闓が袁術に仕えた記述が存在するわけです。

袁術は197年に張炯の説に従い皇帝となります。

この年に袁術は陳に侵攻し、陳王の劉寵と駱俊を殺害しています。

この時に、駱俊の使者になった人物に張闓の名前が出て来るわけです。

確証はありませんが、後漢書の記述を考えると曹嵩を殺害した後の張闓は、淮南に逃げて袁術に仕えた様に感じました。

曹操と袁術は敵対しており、張闓にとって一番の居場所は袁術だったと考えられます。

尚、張闓がどの様な最後を迎えたのかに関しては、記録がなく不明としか言いようがありません。

張闓の能力値

三国志14統率35武力66知力8政治1魅力10

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

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