古代朝鮮 新羅

脱解尼師今は倭出身の新羅王

2026年10月14日

スポンサーリンク

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細

名前脱解尼師今(だっかいにしきん)
生没年前19年?ー80年
出身地多婆那国
国新羅
一族子:仇鄒
コメント倭人の可能性がある。

三国史記によると、脱解の姓は昔氏であり、王妃は阿孝夫人だったとあります。

さらに、脱解は多婆那国で生まれたと三国史記は記録しました。

多婆那国の場所は倭国の東方一千里だとあり、魏志倭人伝のいうところの倭種ではないかとも考えられています。

日本の丹波や但馬ではないかとする説もありますが、はっきりとしません。

こうした事情から脱解は倭人もしくは倭種だったのではないかとされています。

脱解は賢者として知られる様になり、儒理尼師今は後継者としました。

脱解尼師今の治世では百済と一進一退の攻防を繰り広げたりもしますが、治世の24年(西暦80年)に世を去りました。

尚、脱解尼師今は始祖の赫居世と同様に、卵から生まれた事になっており、南方の神話の影響を強く受けていると言えそうです。

脱解の誕生

脱解は倭の多婆那国の出身であり、その国の王が女国の王女を娶って妻としました。

妊娠して7年が経過すると、大きな卵を生んだと言います。

王は「人でありながら卵を生むのは不祥である。その卵を捨ててしまう様にせよ」と述べ、卵を捨てる様に命令したわけです。

しかし、王女は捨てようとは思わず、絹の布で卵を包み、宝物と共に箱の中に入れ、海に浮かべました。

捨てるのに忍びなく、海に卵の身を任せたのでしょう。

それと同時に箱を流しており、箱舟漂着型の神話だと言えます。

卵は金官国に漂着したとあり、倭の多婆那国から朝鮮半島に到着したのでしょう。

流れ着いた卵は、怪しまれ取り上げようとはしませんでした。

再び卵の入った箱は海に浮かべられ、辰韓の阿珍浦の海岸に流れ着く事になります。

この時が、新羅の始祖の赫居世の在位39年(前19年)だったと言います。

脱解は新羅に入りました。

聖人君子の様な人柄

脱解は箱の中に入ったまま、新羅に入りましたが、老婆が綱で箱を海岸に引き寄せ、箱を開けると一人の少年がいたといいます。

卵から孵化していたという事なのでしょう。

老婆は脱解を養い成長すると、身長が九尺、風格は神の様に秀でて明朗であり、知識は人々を抜きんでていたと言います。

子供の姓氏が分からず、箱に入ってきた時に、一羽の鵲が飛んできて、鳴きながら箱に従っており、鵲の文字を省略して「昔」とし、箱を開いて子供を出した事から「脱解」と名付けたと言います。

脱解は最初は釣りをして母親を養いますが、少しも怠けるところがなかったと記録されており、極めて真面目な聖人君子の様な人柄だったのでしょう。

母親も「お前は常人ではありません。その骨相が特に異なっている。学問をして功名を立てるのがよいだろう」と述べました。

脱解は学問に打ち込み、地理にも精通したと言います。

脱解が瓠公の土地を取り上げる

脱解はある日、楊山の麓の瓠公の邸宅を見て、吉兆の地だと考えました。

三国史記によると脱解は「相手を騙してその土地を取り上げ、そこに住んだ」とあります。

この言葉を普通に読めば、脱解は詐術を使って瓠公を騙して、土地を奪った事になりますが、どの様な方法だったのかは分かっていません。

さらに言えば、後に脱解は新羅王となりますが、瓠公を新羅の最高官である大輔に任命しており重用しています。

これを見ると、脱解と瓠公の関係が険悪になったようにも見えず、三国史記にも詳細が書かれておらず、何を指すのかは不明です。

尚、脱解が得た地が月城となり、新羅の本拠地となります。

脱解が大輔となる

新羅では赫居世が亡くなると、南解次次雄が即位しました。

南解次次雄の5年(西暦8年)に、南解次次雄は脱解が賢者であると聞きつけ、王女を娶らせる事になります。

さらに、大輔となりました。

脱解は、新羅の最高官(宰相)にまで成り上がった事になります。

南解次次雄が亡くなると、儒理尼師今が新羅王に即位しました。

脱解尼師今の誕生

儒理尼師今は義兄でしたが、亡くなる時に次の様に遺言しました。

※三国史記より

儒理尼師今「自分の死後は、自分の子や娘婿などの立場は抜きにして、年長で賢い者が王位を継ぐようにしなさい」

この言葉から、儒理尼師今は脱解に後継者になるよう述べたと言えるでしょう。

徳ある脱解に禅譲を行った様にも見えるわけです。

儒理尼師今の遺言もあり、脱解が四代目新羅王の脱解尼師今となりました。

それと同時に男系で考えれば、初代の赫居世から続いていた朴氏の系統が終わり、昔氏の系統に移行したと言えます。

脱解尼師今の治世は西暦57年から始まりました。

この時に62歳だったと伝わっています。

即位2年目に瓠公を大輔とし、さらに脱解尼師今が自ら始祖廟を祀りました。

脱解尼師今の治世

59年に脱解尼師今は吐含山に登りますが、黒雲が現れ屋根のように王の頭上に浮かんだとあります。

しかし、直ぐに黒雲が散りました。

同年に倭国と国交を結び使者が行き来したとあります。

61年には馬韓の将軍の孟召が覆厳城と共に新羅に降りました。

63年に百済が領土を娘子谷城まで広げています。

三国史記には、この時に百済王が新羅に使者を派遣してきますが、脱解尼師今は会見に応じなかった話があります。

時代的に考えて、この時の百済王は多婁王だったのでしょう。

64年になると百済は蛙山城と狗壌城を攻撃しますが、脱解尼師今は二千騎を派遣し、敗走させました。

蛙山城は百済との係争地であり、この先、何度も争う事になります。

この年は地震があり、雪が降らなかった話があります。

65年に脱解尼師今は金閼智を発見し養育する事になります。

金閼智が後の新羅王となる金味鄒(味鄒尼師今)や金氏王統の祖です。

66年に百済が蛙山城を陥落させ二百名で守らせますが、新羅軍が奪還しました。

67年に朴氏が身分の高い外戚であり、国内の州・郡を朴氏と分けて治め、その名称を州主・郡主としたと言います。

朴氏は先代の一族でしたが、強い力を持っていたのでしょう。

同年に順貞を伊伐飡とし政治を委任したとあります。

伊伐飡は官職名だと考えられている状態です。

70年に百済が新羅に侵攻して来たとあります。

73年に倭人が木出島に侵入し、脱解尼師今は角干羽鳥を派遣し、これを防ぐも勝利を挙げる事は出来ませんでした。

羽鳥は倭人との戦いで戦死しています。

74年にも百済が国境地帯を荒したので、脱解尼師今は軍を派遣し追い払いました。

75年に新羅で酷い旱魃が発生し国民で飢える者が多数出た事で、脱解尼師今は倉を開いて食料を分け与えています。

同年に百済が侵攻し蛙山城を奪っており、飢饉に乗じて攻撃を仕掛けて来たのでしょう。

翌年の76年に脱解尼師今は蛙山城を奪還する為に兵を出し戦いに勝利し、百済から移住した者たち200余人を悉く殺害したとあります。

77年に新羅の阿飡吉門は伽耶の軍と黄山津の川岸で戦う事になります。

黄山津の戦いでは新羅軍が大勝した様であり、敵の首を一千余級もとったとあります。

脱解尼師今は吉門を波珍飡とし功績に報いました。

脱解尼師今の最期

79年の春二月にほうき星が東方に現れ、また北方にも現れ二十日たって漸く消滅したとあります。

ほうき星の記述は、三国史記には度々登場しますが、二つのほうき星が現れたのは、脱解尼師今の死を予言してのことではないでしょうか。

翌年の80年夏四月に王都で大風が吹いて、金城の東門が倒壊したとあります。

秋八月に脱解尼師今が亡くなり、金城の北壌井丘に葬ったとあります。

脱解尼師今が亡くなると、子の仇鄒は後継者にならず、先代の儒理尼師今の子の婆娑尼師今が後継者になりました。

ただし、新羅の王統は後に昔氏系統に戻って来る事になり、第九代の伐休尼師今は脱解尼師今の孫となります。

先代:儒理尼師今脱解尼師今次代:婆娑尼師今

スポンサーリンク

  • この記事を書いた人
  • 最新記事

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細