名前 | エジプト第17王朝 |
時代 | 紀元前1580年頃 - 紀元前1550年頃?? |
支配地域 | 上エジプト |
首都 | テーベ |
エジプト第17王朝は実質的にエジプト第二中間期を終わらせた王朝でもあります。
エジプト第17王朝はマネトのエジプト史によれば、43人のヒクソスの王と43人のテーベの王がいた事になっています。
エジプト第17王朝は個々の王の名が分かっていない部分があり、目まぐるしく王位が変わった様にも見える為、混乱の時代であり頻繁に王が変わったのではないか?とも考えられるはずです。
エジプト第16王朝と第17王朝は繋がっているのではないか?とする説もあります。
しかし、最終的にはエジプト第17王朝はヒクソスの第15王朝を打ち破りました。
尚、エジプト第15王朝を滅ぼしたイアフメス1世がエジプト第18王朝の始祖となっていますが、イアフメス1世は第17王朝のカーメスの弟とされています。
それを考えれば、エジプト第17王朝の勢力が、ヒクソスをエジプトから追放したとも言えるはずです。
※エジプト第17王朝の資料が少なく「古代エジプト全史 著者・河合望」をベースに記述しました。(歴史の部分)
エジプト第17王朝の歴史
エジプト第17王朝の始祖はラーヘテプであり、アビドスとコプトスの神殿の修復をした記録があります。
しかし、エジプト第17王朝の始祖であるラーヘテプがどの様な経緯で王となったのかは、分かっておらずエジプト第13王朝や第14王朝との繋がりも不明です。
6代目のセベクエムサエフはワディ・ハンママートに採石の遠征隊を派遣した事が分かっています。
セベクエムサエフはカルナック大神殿に建造物も残しました。
建造物を残したとなると第17王朝の勃興とも考えられますが、第17王朝の初期は分からない事だらけです。
エジプト新王国時代に属するエジプト第20王朝の時代に書かれた「アボット・パピルス」と呼ばれる墓泥棒の裁判文書があります。
アボット・パピルスには第17王朝の5人の王が記録されていた事で話題になっています。
アボット・パピルスにはネブケペルラー・アンテフ7世、セケムラー・アンテフ8世、セベクエムサエフ2世、セケンエンラー・タアア王、カーメス王の王墓が書かれていました。
アボット・パピルスには記録はありましたが、墓の場所は分からなくなっており、2001年にルクソール西岸のクルナ村でアンテフ7世の王墓が発見され話題になっています。
2012年にフランスの調査隊がカルナクのアメン大神殿域内で、セナクトエンラー・イアフメス王の名前が入った門が見つかり、この王がセケンエンラー・タア王の父親であった事が分かりました。
セケンエンラー・タアはカーメスなどと共にエジプト第15王朝との戦でのキーマンとなっています。
尚、エジプト第17王朝は上エジプトの王朝である事に間違いはなく、シリアやレヴァントと交易する為には、エジプト第15王朝が障壁となっていました。
エジプト第17王朝にレバント杉などが入って来なくなり、エジプトの現地の木材を使って埋葬する副葬品を作った話もあります。
エジプトの統一
アペピ王の手紙
ヒクソスが治めるエジプト第15王朝のアペピ王から「テーベのカバの鳴き声が煩く夜も眠れない。街の東の沼からカバを追い払う様にせよ」とする手紙が第17王朝に届きました。
第15王朝から命令口調の手紙となるのですが、当時のアビドス王朝や第16王朝、17王朝などは15王朝の諸侯に過ぎず、当時のエジプトの正統なファラオと言えば、ヒクソスのアペピ王だったのでしょう。
一つの説としてカバは悪の象徴であり、カバを狩る事はこの世の秩序を保つ事でもあり、ファラオだけに許された神聖な儀式だったともされています。
ここで第17王朝のセケンエンラー・タア王が手紙のままにカバ狩りを行えば、ファラオを僭称した事にもなり、第15王朝の攻撃を受ける可能性が出て来ます。
さらに、カバ狩りを行わなければ「ファラオの命令に反した」とする難癖をつけて来るとも考えられました。
ただし、カバに対しては別説もあり、テーベではカバは妊娠のタウレト女神として非常に愛される存在だったとも言います。
カバが愛される存在だった説と採用すると、第15王朝のアペピ王は第17王朝に「ヒクソスに対しての不満分子であるエジプト人を片付けよ」とする命令だったとされています。
アピペ王のおちょくった様なカバの手紙ですが、ここから下エジプトの第15王朝と上エジプトの第17王朝の全面戦争に突入します。
尚、下エジプトの第15王朝は南方のヌビア・クシュ王国と同盟を結び、エジプト第17王朝を挟撃する作戦に出ます。
第15王朝側の使者は第17王朝に捕まったとも言われていますが、戦争が始まって時点での戦力では第17王朝側が劣っていたのでしょう。
天下統一
エジプト第15王朝と第17王朝の戦いは激戦だった様であり、セケンエンラー・タア王までもが戦死したと考えられています。
セケンエンラー・タア王の遺体が発見されましたが、複数の傷跡や斧とみられる傷跡もある事から、戦いで致命傷を負い処刑されたのではないか?ともされています。
エジプト第17王朝では勇敢王・カーメスが即位しますが、カーメスの時代に第15王朝と第17王朝の力量は入れ替わる結果となりました。
カーメスは第15王朝の首都であるアヴァリスまで進撃しますが、ここで病死しました。
カーメスが亡くなった事でアヴァリスは大した損害も受けませんでしたが、後継者となったイアフメス1世が再び第15王朝に攻勢を仕掛けます。
イアフメス1世はカーメスの弟とも伝わっています。
イアフメス1世は第15王朝の首都であるアヴァリスを再び包囲し陥落させています。
これによりエジプト第15王朝は滅亡し、ヒクソスをエジプトから駆逐しました。
カーメスとイアフメス1世は兄弟である事から、男系が途切れたわけでも簒奪により別王朝に変わったわけでもありませんが、イアフメス1世からエジプト第18王朝が始まる事になります。
それを考えれば、勇敢王カーメスの死でエジプト第17王朝は終焉を迎えたと言えそうです。
ただし、決して王統が途切れたわけではありません。
尚、第18王朝からエジプト新王国時代となり、古代エジプト最後の繁栄の時代に突入する事になりました。