衛の武公を紹介したいと思います。衛の武公の本名は姫和です。
衛の武公は周王朝が天下の主だった時代の人となります。
ただし、周王朝が諸侯の力よりも上だった西周王朝と犬戎などにより弱体化した東周王朝の両方を生きた人です。
尚、衛の武公が共伯和なる説もありますが、そちらも紹介します。
ちなみに、衛の武公は「私を諫めよ」と口癖のように言い諫言を好んだとされています。
春秋戦国時代のマイナーな人物ですし、需要も低いと思いますが、名君なので紹介したいと思います。
即位した時に兄を殺している
衛の武公は、先ほど名君だと紹介しました。
しかし、即位するにあたって自分の兄を殺害して位に就いているわけです。
殺害理由はよく分かりませんが、兄を殺して衛の君主になった記録が残っています。
兄が弟を殺そうとしていて、先手を打ったのか。後ろに黒幕がいたのかは記述が無いので分かりません。
しかし、名君と言えども血なまぐささはあったわけです。
これについては難しい所もあり、衛の武公が兄以上の名君であれば国民にとっては衛の武公が国君でいた方がよいでしょう。
それを考えると、衛の武公が兄を殺害した行為は一概に悪いとも言えない部分もあります。
共伯和の説がある
衛の武公が共伯和だとする説があります。
共伯和と言うのは、周の厲王が彘に逃亡してしまい、宗周(鎬京)に王が不在になってしまいました。
西周王朝の王が不在の時代を共和と呼びます。
王の代わりに政を共伯和なる人物が行ったと竹書紀年に記録が残っています。
この共伯和が衛の武公だとする説があるわけです。
ただし、衛の武公は死亡した年が紀元前758年です。
さらに、即位したのが紀元前812年とされています。
共和の始まりが紀元前841年です。
これを考えると年代的に合わせるのが難しくなっていきます。
衛の武公が共和元年の時に20歳くらいだったと想定します。
すると、死亡するのが758年ですから100歳を超えてしまうわけです。
衛の武公は長生きだったようですが、現実離れしすぎている感じもします。
衛の武公が即位した年が、紀元前812年で、それよりも前に周王朝の共和期の執政を行った事になります。
さらに、共和が紀元前828年に終わると、何をしていたのかは分かりませんが、宣王の補佐をしていたのでしょうか??
そして、共和が終ってから10年以上も経過して紀元前812年に兄を襲撃して衛の君主になった事になります。
これを採用するとなると、かなりの激動の人生を歩んだ事になります。
しかし、国君でもない20歳ほどの青年が周の執政になれるのでしょうか?
織田信長は18歳で家督を継いだなどもありますが、織田信長の場合は独立勢力の君主です。
それに対して衛の武公は周の配下にいる大名的な存在です。
普通に考えれば、衛の武公を共和の執政にするのは難しいと思いました。
ただし、伝わっている年表が間違っているなどの事情が重なれば、衛の武公を共伯和にする事の可能でしょう。
共和だけではなく西周王朝は謎が多すぎてしまい、まとめるのが大変な所もあります。
周の東遷でも活躍
衛の武公ですが、周の東遷にも活躍しています。
周は幽王のオオカミ少年事件?もあり、犬戎や申公に攻撃されて壊滅してしまいました。
しかし、元の太子だった宜臼は申に逃亡していわけです。
幽王は驪山の麓で殺されてしまいますが、有力諸侯が申に来て宜臼を周王として認めました。
諸侯が連合軍を作り宜臼を成周(洛陽)に入れる事になったわけです。
秦の襄公、晋の文侯、鄭の武公などが申に集結したわけですが、その中に衛の武公もいました。
そして、軍を出し宜臼を成周に入れる事に成功しています。
宜臼は周の平王となり、ここからが春秋戦国時代の始まります。
それまでは衛は侯国だったけですが、この功績により公国となって位が上がる事になりました。
武が盆になっている君主は軍事的な成功を収めた事が多いわけですが、記録にないだけで、この他にも衛の武公には軍事の成功があったのではないかと考えています。
諫言が好きだった衛の武公
衛の武公の逸話なのですが、諫言がとにかく好きだったそうです。
口癖が「私を諫めよ」だったと言われています。
さらに、老年になっても変わる事がなく「老人だからと言って見捨てる出ないぞ。私を諫言するように」と言っていたそうです。
衛の武公は何歳まで生きたかは分かりませんが、かなり長生きだった事が分かっています。
色々な主君を見てきましたが「諫言」を好むと言うのは珍しいタイプだと思いました。
自分も上司にするとしたら衛の武公のような人がいいかも知れません。
ただし、この時代なので記録が少なく本当のところはよく分かりませんが、「武」という盆は「文」に次ぐ2番目に素晴らしい盆だと言われています。
そのため衛の武公が名君だった事は間違いないでしょう。
衛の武公の子孫
衛の武公自身は素晴らしい人だと思うのですが、衛って子孫がイマイチなのでは?と思える事が少なくありません。
衛の荘公は異民族が嫌いでした、異民族の家の美しい髪を持った女性の髪を剃ってしまい自分の夫人の「かつら」にしたわけです。
衛の荘公は、大臣からも恨みを買っていて攻められてしまいました。
逃げた荘公は異民族の住居に逃げたわけですが、「かつら」の恨みもあり殺されてしまいます。
この荘公の行動は衛の武公がみたら説教ものだと思いました。
さらに、衛の懿公は家臣よりも鶴を優先させた為に国が滅びています。
この行動は衛の武公がみたら呆れてしまうかも知れません・・・。
衛は戦国時代になると弱小国となり魏の属国になっています。
しかし、秦の始皇帝が統一しても滅ぼされませんでしたが、2世皇帝胡亥の時代に衛君角を庶民に落として滅亡しました。
弱小国ながらも長々と続いたのは、衛の先祖である康叔や武公の徳のお陰かも知れません。
しかし、衛は孔子の弟子の子路が内乱で死んだり武公以降は残念な国?になったような気がします。
尚、戦国時代に秦の孝公に法治国家を進めた商鞅は衛の公子です。