名前 | 袁毅(えんき) |
生没年 | 不明 |
時代 | 三国志、西晋 |
コメント | 汚職で失脚 |
袁毅は正史三国志や晋書に名前が挙がる人物です。
袁毅は司馬炎の時代の人でもあり、三国志の世界では最末期の人物とも言えます。
袁毅に関して言えば、お世辞にも褒められた様な人ではなく、汚職により失脚した人でもあります。
品行方正に優れた人ではなかったのでしょう。
三国志の魏の袁氏と言えば袁渙や袁覇の一族が有名であり、人格を賞賛された人物が多いです。
袁毅に関しては、袁渙や袁覇の袁氏とどの様な関係なのかは記載がありません。
しかし、個人的には袁毅も袁渙や袁覇の一族だったのではないか?とも考えてしまいます。
今回は正史三国志の王朗伝の注釈・世語や晋書などに、名前が登場する袁毅の解説をします。
袁毅の出自
袁毅の出自を考える上で、資料となるのが晋書に関しての記述です。
晋書に関しての袁毅の記述ですが、いつか書きたい三国志さんの記述を元に書いています。
西暦275年頃に何曾の子である何遵と何劭は弾劾され、逮捕されてしまいました。
この事件で問題となったのは何遵と何劭が、袁毅から賄賂を受け取った事が理由です。
何遵と何劭の身柄は廷尉に引き渡されますが、ここに西晋の皇帝である司馬炎から、鶴の一声が掛かります。
※いつか書きたい三国志より
司馬炎「何曾と袁毅の家は、何世代も付き合いがある。いま何劭と何遵が受け取ったのは、これまで両家が交換し合っていたプレゼントと大差がない。だから賄賂ではない」
司馬炎の詔により何劭と何遵は助かったわけです。
司馬炎は何劭の家と袁毅の家は、普通に交流があり贈り物をしていた間柄だから、賄賂ではないと判断した事になるでしょう。
ここで注目したいのは「「何曾と袁毅の家は、何世代も付き合いがある」と記載がある事です。
ここで登場する何曾は袁亮と仲が良く、袁渙に匹敵する名声があったとされています。
さらに、何曾の父親の何夔は、袁亮の父親である袁覇と共に評判が高かったとあります。
それを考えると袁毅の出自は書かれていませんが「何曾と袁毅の家は、何世代も付き合いがある」というのは、何夔と袁覇の代の付き合いから考えると合致すると感じました。
個人的には袁毅は、袁覇や袁亮の一族だったのではないか?とも思えるわけです。
袁氏に関しては行いが良かった事ばかりが正史三国志に記述されており、袁毅の様な賄賂で失脚した様な人物は袁氏として記載しなかったのかも知れません。
袁氏は代々高官であり、政治的な意図が働いた可能性もあります。
袁毅の失脚
正史三国志の王朗伝の注釈・世語に、袁毅と王恂の逸話があります。
袁毅が鬲県の県令をしていた時に、駿馬を王恂に贈りました。
しかし、王恂は袁毅が貪欲な人物だった事もあり、受け取らなかったわけです。
王恂は広い見識を持ち忠実で公正な人物だったとされ、袁毅の様な人物とは交わろうとも思わなかったのでしょう。
王恂伝には、この後の袁毅の事も書かれており「袁毅の最後は汚職により失脚した」とする記述があります。
袁毅は度を越した賄賂を繰り返し、失脚してしまった様に感じました。
何劭の時は司馬炎に助けられましたが、袁毅はそれでも懲りず賄賂を続けた結果として、弾劾され失脚してしまった様に感じます。