三国志 魏(三国志)

袁亮(えんりょう)は高い学識と名声を持っていた

2022年6月29日

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名前袁亮(えんりょう)
生没年不明
時代三国志、三国時代
コメント高い名声と学識を持っていた

袁亮は袁覇の子であり、正史三国志や注釈の「魏書」や「魏氏春秋」にも名前が掲載されている人物です。

何夔の子である何曾とは仲が良かった話があり、逆に鄧颺や何晏らを嫌悪していた話があります。

袁亮と何曾は仲が良かっただけではなく、共に高い名声を持っており、名声の高さは従弟の袁渙にも匹敵するほどだったとされています。

司馬懿が実権を握った後は、司馬氏に協力する事となり、司馬師の意向を支持した話もあります。

魏の四代皇帝である曹髦の前で、虞松や荀顗らと議論をした話もあり、袁亮は高い学識も持っていたのでしょう。

今回は袁覇の子で、袁渙の従弟にあたる袁亮の解説をします。

尚、袁亮には袁粲という子がいた事も分かっています。

因みに、袁粲の代になると何曾の子である何劭や孫の何岐とは、上手くいかなくなったのではないか?とも考えられています。

鄧颺・何晏を嫌う

袁亮は何夔の子である何曾と仲が良かった話があります。

何夔は袁亮の父親である袁覇に匹敵する名声があった話があり、父親同士が知り合いだったとも考えられ、その過程で袁亮と何曾も友人になったのかも知れません。

袁亮は心正しく堅固で学問品行に優れていたとあります。

袁渙の子である袁準袁侃も人間性が優れていた記述があり、袁氏は人格に優れていた人物が多いです。

ただし、袁亮は何晏や鄧颺らを、憎悪していた話があります。

しかも、袁亮は何晏や鄧颺に対し論説を書いて激しく非難していた話があり、かなり嫌っていた事は確実でしょう。

魏では曹叡の死後に、曹芳が皇帝に即位しますが、曹爽と司馬懿に政治を委ねられる事になります。

曹爽は曹真の子で王族であり、司馬懿は名士の出身で名士層からの高い求心力があったわけです。

何晏や鄧颺らは曹爽派であり、高平陵の変で命を落としています。

袁亮が何晏や鄧颺を嫌っていたのは、政治は名士が中心となり行うものだと考えており、結果として司馬懿に与し、王族の曹爽派にいる何晏や鄧颺らを嫌っていた可能性もあります。

曹芳の廃位

魏で実権を握った司馬懿が亡くなると、司馬師が実権を引き継ぐ事となります。

司馬師は魏の皇帝である曹芳の廃位を考える様になりました。

司馬師の権力は既に皇帝である曹芳を超えていましたが、建前としては臣下であり、自らが宣言して曹芳を廃位にする事は出来なかったわけです。

そこで司馬師は先代・曹叡の妃である郭太后の布告により、曹芳を廃位にしようとしました。

この時に司馬師が群臣と共に郭太后に上奏するわけですが、連署した臣下の一覧の中に「長谷郷侯の臣・袁亮」と記載されています。

上奏文に袁亮の名前があった事を考えると、袁亮は司馬師の曹芳廃位計画に賛成の立場だったと言う事でしょう。

尚、司馬師による上奏文ですが、袁亮など連名で署名した臣下は、下記の通りとなっています。

司馬孚司馬師高柔鄭沖司馬昭孫邕
晏(任昊??)満偉庾嶷鍾毓魯芝王祥
鄭袤何楨張閣尹模何曾王粛
慮(姓不明)司馬望曹演郭徳荀廙武陔
郭建甄温曹初(曹仁の孫??)徐超鄭小同荀顗
趙酆華表韋誕司馬瓌王儀郭芝
盧毓王観傅嘏袁亮袁亮崔賛
陳騫孟康鈐(石鑒??)範(姓不明)庾峻 

曹芳の廃位は決定されますが、新たな皇帝は曹髦に決定しました。

曹髦を皇帝に迎えるにあたり、次の記述が存在します。

中護軍の司馬望、兼太常・河南尹の王粛に節を持たせ少府の鄭袤、尚書の袁亮、華表らと共に高貴郷公を元城に迎えさせた。

ここで登場する高貴郷公が、曹髦となります。

曹髦の時代になると、袁亮は尚書にまで出世している事が分かります。

正史三国志にも袁亮の官位は河南尹から、尚書にまで昇ったと記録されています。

司馬師の上奏文の中に袁亮の名前が登場する事からも、魏の末期には袁亮が政治の中枢にいた事は明らかでしょう。

曹髦の前で議論

曹髦は荀顗、崔賛、袁亮、鍾毓、虞松らと礼法制度について議論した話があります。

礼法制度の議論が終わった後に、曹髦は古からの帝王の優劣を論じようと考えました。

曹髦は夏の少康を敬慕しており、少康の関して議論してみたくなったのでしょう。

曹髦は荀顗や袁亮らに「夏を復興させた少康と項羽を滅ぼし漢を起こした劉邦と、どちらが優れているのか?」と議論させます。。

荀顗らは夏の少康は中興の祖であり、後漢の光武帝の様な人物と考え、何もない所から漢を起こした劉邦の方が優れていると述べます。

しかし、曹髦は納得せず「必ずしも創業者が優れており、継承者が劣っているものではない」と述べます。

曹髦は夏の少康や殷の武丁は中興の君主としての偉大さがあり、夏の二代目の君主である夏の啓王や周の成王は出来上がった制度を維持した見事さがあると述べました。

さらに、曹髦は様々な面から判断し、一面を見れば夏の少康の方が劉邦よりも優れていると述べます。

曹髦はこの席は解散しましたが、袁亮らに、もっと議論する様に指示しています。

後日、荀顗と袁亮が議論を行い、夏の少康は仁者であり、劉邦は秦や項羽を武力で滅ぼした智者であると述べます。

さらに「仁」と「智」は同等ではなく、曹髦の詔の様に少康の方が優れていると結論付けました。

それに対し、崔賛、鍾毓、虞松らは、少康は仁の人ではあったが、既に夏を復興する土台があったと述べます。

劉邦の場合は庶民から漢王朝を創設したのであり、功業に関しては夏の少康に勝っていると述べました。

崔賛、鍾毓、虞松らは徳義の面では少康が勝っており、功業の面では劉邦が勝っていると結論づけました。

曹髦は袁亮らの意見を聞いた後に、仁者は必ず勇気を持っている事を例に挙げ、少康の武功が劉邦に劣っているとは限らないと述べています。

ただし、曹髦は夏の少康が伝説的な人物であり、伍子胥の名前を挙げて少康に対する記録の少なさも述べています。

伍子胥ですが、春秋時代末期の人物であり越王勾践を警戒しない、主君の呉王夫差に対し少康と有過氏を例に出し諫めた話があります。

この後に虞松が曹髦に、少康の記録を纏め後代に残すべきだと述べますが、曹髦は後世のものに笑われると述べた事で鍾会が編集した話があります。

袁亮は名士であり、歴史に関してもかなり詳しく議論する事が出来たのでしょう。

尚、袁亮が参加したこの話は、当時の学者や名士たちがどの様な事を議論してたのか、分かる話でもあります。

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

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