名前 | 楽就(がくしゅう) |
生没年 | 生年不明ー197年 |
時代 | 後漢末期、三国志 |
勢力 | 袁術 |
年表 | 197年 曹操と戦い死亡 |
画像 | 三国志(コーエーテクモゲームス) |
楽就は曹操と戦い敗れ、命を落とした人物です。
三國志演義だけではなく、正史三国志にも名前が記載されている事から、実在した人物なのでしょう。
史実における楽就の詳細な実績は不明であり、どの様な経緯で袁術に仕えたのかも不明です。
袁術が洛陽にいた時から仕えていたのか、寿春に移ってから仕えたのかもはっきりとしません。
楽就はネット内では袁術四天王の一人に数えられる事もあります。
最後は袁術を逃がす為に奮戦したとも考えられ、袁術に対して高い忠誠心を持っていた可能性もあるはずです。
今回は正史三国志に一度だけですが、名前も登場する楽就を解説します。
曹操に怯える袁術
袁術は仲王朝を開きますが、これは迷走と言ってもよく、袁術の凋落が始まります。
こうした中で、西暦197年頃に袁術は呂布と戦いますが敗れました。
この後に袁術は、陳を攻撃しますが、曹操が自ら袁術討伐にやってきたわけです。
袁術は、これまでの戦いでは曹操に負け続けており、敵わないと判断したのか部下の橋蕤、李豊、梁綱、楽就らに任せて、自らは淮水を渡り逃亡しました。
楽就はの橋蕤、李豊、梁綱らと共に、曹操と戦う事となります。
しかし、主君である袁術は既に逃亡しており、袁術軍の士気は低かった可能性もあるでしょう。
こうした中で楽就らは、用兵の達人とも言える曹操と戦う事になったわけです。
楽就散る
楽就はの橋蕤、李豊、梁綱らと曹操と戦いますが、正史三国志には次の記述が存在します。
「橋蕤らを撃破し、全員を殺害した」
これが197年に起きた苦の戦いであり、楽就は命を落とした事が分かります。
正史三国志の張楽于張徐伝の楽進伝と于禁伝を見ると、簡略な記述ではありますが、曹操軍の楽進と于禁の働きが凄かった話もあります。
この記述だけだと、楽就らは呆気なく曹操に敗れたのではないか?と感じるかも知れません。
しかし、正史三国志の著者である陳寿は戦いや物事などを簡略に書く事が多く、実際には楽就らは奮戦し激戦だった可能性もあるはずです。
橋蕤、李豊、梁綱、楽就を破った曹操は、袁術を追撃せず、許に引き返した話があります。
それらを考慮しても、楽就らは負け戦の中でも奮戦した可能性は十分にあると思いました。
ただし、この後に張繡が不穏な動きを見せた話しもあり、曹操は楽就らを破った後に、張繡の事が気になり、許に引き返した可能性もあるでしょう。
正史三国志の記述は簡略過ぎてしまい、この辺りは不明な部分が多いです。
尚、楽就に関しては用兵の腕がまずかったから敗れたと言うよりも、曹操が強すぎたとも言えます。
楽就の能力値
三国志14 | 統率53 | 武力66 | 知力58 | 政治39 | 魅力50 |