その他 三国志

橋蕤(きょうずい)は仲王朝の武の柱だった!?

2022年5月22日

スポンサーリンク

名前橋蕤(きょうずい)
生没年生年不明ー197年
時代三国志、後漢末期
勢力袁術
年表197年 苦の戦い
画像三国志(コーエーテクモゲームス

橋蕤は袁術配下の武将であり、張勲と共に大将軍に任命された記録があります。

ただし、橋蕤の言う大将軍は後漢の何進、曹操、呉の陸遜や諸葛瑾などの様な一国の大将軍と言った程の権力は無かった様に思います。

あくまで後漢末期の群雄割拠した状態での、袁術の勢力内で橋蕤が張勲と共に、最も尊いと呼べる様な将軍位に着いた事を指すのでしょう。

尚、後年に袁術は帝位を僭称し仲王朝を開き皇帝となりました。

この時には、橋蕤と張勲が本当に王朝の大将軍に任命された様に思います。

橋蕤は袁術に信頼された将軍の一人だった事は間違いないでしょう。

袁術軍を率いた記録も残っています。

ただし、橋蕤は苦の戦いで李豊楽就梁綱らと共に、曹操と戦いますが敗れて命を落としています。

因みに、三国志演義では橋蕤は史実とは違った最後が用意されており、夏侯惇に討たれた事になっています。

袁術に仕え大将軍となる

橋蕤がどのタイミングで袁術に仕えたのかは記録がなく分かっていません。

しかし、董卓が長安に献帝を連れて遷都すると、関東の地では袁紹派と袁術派に分かれて戦う事となりました。

袁術は陶謙や公孫瓚を味方に付け、戦略的に有利な立場を造り出しますが、曹操の用兵の前に敗れて揚州に逃亡しています。

この後に、袁術は揚州刺史の陳温を殺害し、陳瑀を追放するなど、揚州方面で勢力を築く事になったわけです。

この頃に、橋蕤は張勲と共に大将軍に任命された記録が袁術伝にあります。

ただし、最初に述べた様に、ここでの大将軍はあくまでも袁術軍の軍事のトップになったとする意味合いが強い様に感じました。

それでも、橋蕤が袁術軍の武の柱になったと言えるでしょう。

蘄陽を攻撃

何年の事かは記録がありませんが、何夔伝に次の記述が存在します。

「袁術は橋蕤と共に、蘄陽を攻撃した」

上記の記述から橋蕤は袁術と共に、蘄陽の戦いに参加した事が分かります。

蘄陽の城は曹操に味方しており、袁術は蘄陽にいる何夔を降伏させ、味方するつもりだったわけです。

しかし、何夔は袁術の謀臣である李業にコンタクトを取り、灊山に身を隠しました。

何夔は隠れましたが、袁術と橋蕤の二人が蘄陽の城を落とす事が出来たのかは不明です。

尚、正史三国志の武帝紀に、213年に曹操の魏公就任を献帝が郗慮を使者として派遣した話があります。

この時の郗慮の記述の中で、次の一文が存在します。

「蘄陽の戦いでは、橋蕤が首を授けた」

上記の記述では橋蕤が首を授けたとあり、橋蕤が亡くなったかに見える記述が存在します。

ただし、正史三国志の別の記事では、橋蕤が亡くなったのは、苦の戦いでの事となっていました。

蘄陽の戦いと苦の戦いは、同じ戦いを指すのか?などは不明な部分だと言えるはずです。

孫策を高く評価

橋蕤が孫策を高く評価した話があります。

孫策は孫堅の子であり、武勇に優れた人物です。

孫堅は荊州の劉表を攻撃している最中に、黄祖呂公により命を落としました。

孫堅が亡くなると、旧孫堅軍は袁術が吸収してしまい、孫策は袁術を頼ったわけです。

こうした中で、橋蕤は孫策を知り高く評価したのでしょう。

孫策は外見が良かっただけではなく、覇気があり兵を扱うのも巧みで、英雄色の強い人物で在り、孫策のカリスマ性を橋蕤も高く評価した様に感じました。

尚、袁術が亡くなった後に、張勲や楊弘が孫策を頼った話がありますが、橋蕤が仮に生きていたとしたら、橋蕤も孫策を頼った様に感じています。

孫策は短気な性格ではありましたが、度量が広く人材を使うのも得意であり、橋蕤も孫策に仕えた方が活躍出来た可能性もあるでしょう。

苦の戦い

袁術は197年に仲王朝を開き皇帝となります。

この時に、橋蕤や張勲などは、本当の大将軍に任命された可能性もあるでしょう。

ただし、袁術の皇帝僭称は鬼門であり、飢饉が起きたり呂布との戦いに敗れた事で、勢力を後退させていく事となります。

こうした中で、袁術は勢力の挽回を考えたのか陳を攻撃しました。

袁術の陳攻撃軍の中に、橋蕤がいた事は間違いないでしょう

袁術の陳への攻撃は曹操を刺激したのか、曹操は自ら出陣してきたわけです。

曹操の出陣を聞いた袁術は、橋蕤を総大将とし李豊楽就梁綱らに任せて、自らは淮水を渡り逃亡しました。

ここにおいて橋蕤ら袁術四天王と曹操の戦いが勃発する事となります。

これが苦の戦いです。

尚、三国志演義では寿春に籠る袁術軍を曹操が包囲した事になっており、橋蕤の代わりに陳紀が戦った事になっています。

三國志演義の著者である羅貫中が、袁術軍のメンバーを橋蕤から陳紀に変えたのかは不明です。

橋蕤の最後

苦の戦いですが、袁術が逃亡してしまった事で、仲王朝の軍は士気も低く弱かった様に感じます。

それに対し、曹操の軍は楽進が一番乗りをし、袁術軍に攻撃を仕掛け、于禁も奮戦した事で、曹操軍の勝利となりました。

于禁伝には次の記述が存在します。

「苦においては橋蕤を包囲し、橋蕤ら四将を斬った」

上記の記述から、橋蕤は楽進や于禁の勇猛さの前に敗れさったとも言えるはずです。

正史三国志のあちこちで、橋蕤が曹操との戦いで命を落とした話があり、橋蕤は197年にこの世を去った事は間違いないでしょう。

橋蕤の能力値

三国志14統率65武力69知力38政治41魅力55

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

スポンサーリンク