伍孚は謝承の後漢書に名前があり、董卓を刺殺しようとした人物です。
伍孚は若い頃から評判の人物であり、節義ある人柄が評価されていました。
伍孚のこうした性格は、董卓が後漢王朝の実権を握る事を許す事が出来ず、暗殺しようと動いたのでしょう。
尚、伍孚と伍瓊は同じく字が徳瑜で出身地も同じであり、共に董卓を排除しようとした事から、同一人物説があります。
ただし、董卓を殺害しようとした経緯に違いがあり、この部分ははっきりとしない部分でもあります。
今回は後漢王朝にとっての忠義の烈士とも言うべき、伍孚の解説をします。
節義ある人物
謝承の後漢書によれば、伍孚は若い頃から節操があり、汝南郡の門下書佐になったとあります。
この時に本籍の村長が罪を犯し、太守は伍孚に命令書を発行し、督郵に命じて逮捕させようとしました。
しかし、伍孚は太守の命令書を受け取ろうとはせず、地面にひれ伏し顔を上げると次の様に述べています。
伍孚「主君が主君に値しない人物であっても、臣下は当然、臣下としていなければなりません。
殿は何故、私に命令書を発行させ、外部に命じて本籍の村長を逮捕させようとなさるのでしょうか。
なにとぞ、他の者にお申し付けくださいますようお願い申し上げます」
太守は伍孚の言葉を立派だと考え、これを聞き入れたとあります。
伍孚は節義ある人物だとされていますが、村長を捕える命令書を自分が出すのには忍びなかったのでしょう。
大将軍の何進も伍孚を立派な人物だと考えたのか、招聘して東曹の属官に任命し、後に伍孚は侍中、河南尹、越騎校尉へと昇進していく事となります。
伍孚は家柄のよい名士であった事と、節義ある人物として昇進して行ったのでしょう。
董卓の暗殺を実行
何進の死後に董卓が実権を握る事になります。
董卓は少帝を廃し献帝を即位させたり、李儒に少帝と母親の何氏を毒殺させるなど横暴が目立ちました。
伍孚の様な節義のある者から見れば、後漢王朝を蔑ろにする董卓の態度は許しがたい事だったのでしょう。
董卓の威勢に後漢王朝の文武百官は震えあがりますが、こうした中で伍孚は宮服の中に佩刀を携えて、董卓を刺殺しようと考えました。
董卓が伍孚を小門まで送って行った時に、伍孚は佩刀を出し、董卓を刺殺しようとします。
伍孚は董卓の暗殺を実行したわけです。
しかし、董卓は西涼で武勇を鳴り響かせた剛腕があり、伍孚の佩刀を見事に避けました。
董卓は伍孚が「君は謀反をおこすつもりか」と述べると、伍孚は大声で次の様に述べています。
※後漢書(謝承)より
伍孚「お前は私の主君ではないし、儂はお前の家来でもない。
これが謀反のはずがない。
お前は国家を混乱に陥れ、天子の位を奪い暴虐は数知れずだ。
今日は儂が死ぬ日である。
だからこそ、姦賊を殺害しに来ただけの事だ。
ただ、お前を市で車裂きの刑に処し、天下に謝罪出来なかったのが残念である」
伍孚は董卓を罵り後漢王朝の為にやったと述べました。
しかし、董卓は伍孚を許すわけにも行かず、伍孚は処刑されています。
これにより伍孚は最後を迎えました。
董卓は伍孚を小門まで送り出しており、伍孚に気を遣っていた部分もある事が分かります。
それにも関わらず、董卓は伍孚に裏切られており、董卓が如何に名士層に嫌われていたのかが分かる逸話でもあります。
尚、伍孚だけではなく、董卓が任命した関東の者達は、反旗を翻しており、董卓の人間不信は加速されたとも言うべきでしょう。
董卓はかなり用心深かった話がありますが、伍孚の件も大きく関係していると感じました。
それでも、自らの危険を顧みず、董卓を暗殺しようとした伍孚は烈士と呼ぶべきでしょう。