三国志

樊伷(はんちゅう)は弁は立つが要領が悪い

2022年4月17日

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宮下悠史

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名前樊伷(はんちゅう)
生没年不明
時代三国志
勢力劉備孫権→劉備
コメント要領が悪い

樊伷は荊州南陽郡の出身であり、正史三国志の呉書潘濬伝に名前がある人物です。

ただし、樊伷の名前があると言っても、陳寿が書いた正史三国志の本文ではなく、江表伝の注釈の方となります。

樊伷は劉備に味方し、武陵郡で呉に対し反旗を翻しますが、潘濬により呆気なく鎮圧されています。

江表伝の記述を見ると、潘濬が的確に樊伷を分析しており、一気に討伐してしまったのが実情だと感じました。

樊伷は目立ちたがり屋で弁は立ったかも知れませんが、容量はかなり悪かったのではないか?とも感じています。

樊伷は弁舌の巧みさで周りを反乱に引き込み、要領の悪さで滅んだ人物の様にも思いました。

因みに、秦王朝末期にに対して反旗を翻した項燕は、項羽と共に挙兵する時に、葬儀の時に手際が悪く、要領の悪い人間を重く用いなかった話があります。

樊伷と潘濬の逸話は、人は見ていない様で、普段の手際の良さを見ているとする話もあるのでしょう。

今回は劉備に帰順しようとして、潘濬に鎮圧された樊伷の解説をします。

劉備に帰属しようと企てる

劉備が漢中王になると、荊州の責任者である関羽は北上し、曹仁がいる樊城を囲みました。

ここで孫権呂蒙の献策を入れて裏切り、蜀漢の荊州の領土を全て奪ってしまったわけです。

この時に糜芳、傅士仁、郝普らと共に、樊伷の天敵とも呼べる潘濬も呉の臣下となっています。

荊州の南部は呉の領土となりますが、呉に対し不満分子も多くいたのが実情だった様に思います。

こうした中で、潘濬は習珍や異民族を誘い、武陵郡ごと劉備に帰属しようとしました。

武陵郡は夷陵の戦いの時に、馬良に誘われた武陵蛮・沙摩柯が蜀に味方した話があり、呉にとって不満分子の多くいたのかも知れません。

現地の人々は1万の軍を率いて、樊伷を討伐したいと願いました。

樊伷の段取りの悪さ

樊伷討伐の要請が孫権の元に届きますが、孫権は認可しませんでした。

孫権は樊伷の討伐について、潘濬に意見を求める事となります。

潘濬は荊州武陵郡の出身であり、孫権としては樊伷の乱を平定するには、どうすればよいか潘濬に聞くのが一番だと考えたのでしょう。

孫権は潘濬に状況を説明すると、潘濬は次の様に述べています。

潘濬「樊伷など五千の兵を差し向ければ十分です」

これに対し、孫権は「なぜ貴方は樊伷を軽く見るのか?」と問うと、潘濬は次の様に答えました。

潘濬「樊伷の家は南陽の旧家であり、口先は得意ですが、実際の所は筋道を立てて弁じる事は出来ません。

私が樊伷を見た例では、樊伷は同郷の者達を招いて、食事会を開きましたが、日中になっても食事の準備すら出来ませんでした。

十回ほど立ち上がり、自ら台所を見にも行っています。

小人の身長は見ただけで分かるものであり、樊伷がどの程度の人物なのか分かるはずです。」

潘濬の話を聞き終わると、孫権は大笑いしたとあります。

樊伷の手際が余りにも悪く、口で周りを扇動する事は出来ても、容量が悪さから大した事は出来ないと判断したのでしょう。

孫権は潘濬に5千の兵を与え、樊伷の討伐に向かわせました。

樊伷は潘濬が思った通りだった様で、樊伷は潘濬に斬られています。

習珍は潘濬に降伏を呼びかけられていますが、自刃しています。

これにより、樊伷の乱は終結しました。

樊伷の先見の明の無さと、要領の悪さにより事は成就しなかったとも言えるでしょう。

尚、この話が何年頃の話なのかは不明ですが、関羽が処刑された西暦219年から、夷陵の戦いが起きた221年までの間に起きた出来事だったはずです。

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