名前 | 韋休甫(いきゅうほ) |
生没年 | 不明 |
出身地 | 司隷京兆尹 |
コメント | 三休の一人に数えられる |
韋休甫は正史三国志の呂布伝の注釈・典略に名前が見える人物です。
韋休甫、第五文休、金元休は同郡で司隷京兆尹の出身であり、三人は郷土でも名が通った人物であったらしく「三休」と呼ばれていた話が残っています。
しかし、韋休甫に関しては、陳寿が書いた正史三国志の本文には一切記載がありません。
注釈の典略にしても、名前くらいしか記載されておらず、韋休甫はかなりの謎の人物です。
正確に言えば、誰に仕えたのかも分からないというしかありません。
もちろん、韋休甫は明代に羅貫中によって書かれた三国志演義にも一切登場しないわけです。
今回は韋休甫に関して分かっている事を書いてみたいと思います。
ただし、後述しますが韋休甫と韋端が同一人物の可能性は極めて高いと考えられます。
韋休甫は本名なのか?
韋休甫に関してですが、おそらくは本名ではないと思われます。
「韋」が姓であり「休甫」が字だと感じます。
三休に数えられる金元休は「金尚」が名前であり、元休が字だと分かっています。
それを考えると、韋休甫の場合は先に述べた様に「韋」が姓で「休甫」が字だと考えた方がよいでしょう。
さらに言えば、三国志の世界では二字の人物が圧倒的に多く司馬懿、諸葛亮、武安国などの三字の人物は少ないと言えます。
余談ですが、同じく「三休」の第五文休も「第五」が姓であり「文休」は字だと考えられています。
韋氏の人物
三国志には司隷京兆尹出身の韋氏として確認出来るのは、韋休甫だけではありません。
馬騰と韓遂の仲を仲裁した韋端も韋休甫と同じく、京兆尹出身の韋氏の一人です。
さらに、韋端の子には馬超に約束を反故にされ殺害された韋康や、書に優れていたとされる韋誕がいます。
ただし、韋休甫と韋端、韋康、韋誕が親戚などと言った記録はなく、関係は不明だとしか言いようがありません。
韋休甫と韋端、韋康、韋誕の誰かが同一人物の可能性はないか?と考えた事もありました。
その辺りを順を追って解説して行きます。
韋康の字は元将であり、韋誕の字は仲将だと言う事が分かっています。
三国志の世界だと劉備の叔父の名前が劉子敬だった事から、字を子敬から子度に変更した孟達の例などはあります。
しかし、字を変える可能性は極端に低いと考えた方がよく、韋休甫と韋誕、韋康が同一人物だという可能性はかなり低いはずです。
そこで白羽の矢が立つのが、韋誕、韋康の父親である韋端となります。
正史三国志には韋端の字に関しては書かれていませんが、三輔決録には次の記述が存在します。
※三輔決録
上計掾杜陵韋端字甫休,仕至涼州牧、 太尉。同郡齊名,時人謂之『京兆三休』
上記を見ると分かりますが「韋端字甫休」という文字が入っている事が分かります。
さらに「京兆三休」の言葉を見えます。
三輔決録の記録だと「韋休甫」ではなく、「韋甫休」となってしまいますが、韋休甫と韋端が同一人物の可能性はかなり高いと言えるでしょう。
中国版のウィキペディアとも言えるサイトを見ると、次の様な記述が存在します。
韋端(生卒年不詳),字休甫,京兆杜陵
※百度より
これらを考慮すると、韋休甫と韋端が同一人物だと見られている事が分かります。
中国では韋休甫と韋端は同一人物だと考えられているのでしょう。
ただし、韋休甫は郷里では三休と言われ評判の人物だったはずですが、韋端は孔融の手紙の中では「あなたの様な人から二つの宝石(韋康、韋誕)が生まれるのは珍しく貴いものだ」と述べた話が伝わっています。
それを考えると韋端は、孔融の評価は低かった様にも感じており、韋休甫は郷里では評判の人物だったが、孔融からは評価されていなかった事にもなるはずです。
尚、孔融は奇人とも言える禰衡や詐欺的な行為をしてしまった太史慈を高く評価しており、特異な人物評価をする人でもあった事は頭に入れておいた方がよいでしょう。