三国志 後漢

劉子敬は幼き劉備を叱った逸話がある

2021年12月29日

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名前劉子敬(りゅうしけい)
生没年不明
後漢
劉備の叔父

劉子敬の名は正史三国志の蜀書先主伝にあり、劉備の叔父だとあります。

劉備の父親である劉弘は若くして亡くなってしまいましたが、劉子敬は一族の劉元起と共に、幼き頃の劉備を支える存在だったのでしょう。

尚、劉子敬には子供時代の劉備を叱責した話が残っています。

後年に孟達が劉子敬と同じ字であった為に、子敬から子度に変更した話があります。

それを考えると、劉備は劉子敬に対しての感謝の念は大きく有名だったのかも知れません。

今回は劉備の叔父であり、若き日の劉備を支えた劉子敬を解説します。

 

劉弘の血筋

正史三国志蜀書先主伝によれば、劉子敬は叔父だとする記述があります。

Wikipediaの記述によれば、劉子敬は劉備の父親である劉弘の弟だと記載されていました。

ちくま学芸文庫の正史三国志には、「劉子敬は劉備の叔父」とは書かれていましたが、劉弘の弟だとする記述はありませんでした。

Wikipediaの記述に従い、劉子敬が劉弘の弟であるならば、劉子敬の父親は孝廉に推挙された劉雄となるのでしょう。

Wikipediaの記述が本当であれば、劉子敬も中山靖王劉勝の子孫となります。

劉備の父親である劉弘は若くして亡くなってしまいましたが、劉子敬は一族の劉元起と共に、劉備に対して最大限のバックアップをしたはずです。

尚、劉備は幽州の涿郡涿県楼桑里の出身であり、劉子敬も同様に涿郡涿県楼桑里で暮らしていた様に思います。

 

劉備を叱る

劉備が7歳の時に、親戚の子供たちと一緒に大きな樹の下で遊んでいた話があります。

この時の劉備は子供だったわけですが、遊びながら次の様に述べた逸話が残っています。

劉備「私は必ずや羽飾りがついた蓋車に乗ってやるんだ」

蓋車とは皇帝が乗る車であり、劉備は子供ながらに尊貴な身分になってやると言い放った事になります。

劉備の言葉を聞いた劉子敬は、慌てて劉備の口を塞ぎ、次の様に述べました。

劉子敬「馬鹿な事を言うな。一族全員が皆殺しにされるぞ。」

劉備の言葉からは子供の戯言とも感じますが、「謀反を起こして自分が皇帝になってやる」と宣言した事にも繋がります。

劉子敬にとってみれば、子供とはいえ劉備に言葉を見過ごす事は出来なかったのでしょう。

因みに、末期に始皇帝が巡遊を行い、始皇帝の行列を見た項羽が「あいつ(始皇帝)にとって変わりたいものだ」と述べた話があります。

この時に、項羽の叔父である項梁も「みだらな事を言うな。一族皆殺しにされるぞ」と項羽を叱った話があります。

劉子敬は劉備を叱った後に、どの様に思ったのかは記載がありませんが、この一件から項梁は項羽を奇傑と評価した逸話が残っています。

劉子敬の父親とされる劉雄はエリートでもあり、家には書物もあり項梁と項羽の話しは、劉子敬も知っていた様に思います。

それを考えると、項梁が項羽を認めた様に、劉子敬も劉備の事を将来は、大物になると認めた可能性もある様に思います。

劉備は早くに父親を亡くし、母親が草鞋を売っていた話しもありますが、一族の劉子敬や劉元起らにより、しっかりと教育された様に感じました。

一族の劉元起の資金で、劉備は盧植の弟子となり、公孫瓚と知り合う事になりますが、劉元起だけではなく劉子敬の意向も含まれていた様に感じています。

劉備にとって劉元起や劉子敬らは、自分を最大限援助してくれた恩がある人であり、生涯に渡り忘れる事が出来ない存在だった様に思います。

尚、劉子敬が劉備を叱った記述を見ると、劉備は親戚の子供たちと樹の下で遊んでいた事になっていますが、劉備と一緒に遊んでいた親戚の子らが、この後にどうなったのかは分からない状態です。

 

魯粛と孟達

劉子敬の「子敬」は字だと思われますが、三国志には劉子敬以外にも二人の子敬と劉備は関わった話があります。

劉備は荊州の劉表の元に身を寄せていましたが、曹操が南下を始め劉表が亡くなり劉琮が後継者になると、劉表陣営では曹操に降伏する事が決定しました。

劉備は曹操に降伏するのを良しとせず江陵を目指して南下しますが、途中で魯粛に出会う事となります。

魯粛の字は「子敬」であり、劉備は自分がお世話になった劉子敬と同じ字を持つ魯粛に対し、特別な気持ちを抱いたのかも知れません。

魯粛も敬ってくれる劉備に対し、心を揺さぶられた様にも感じました。

赤壁の戦いや南郡攻防戦では周瑜、魯粛、劉備らが曹操陣営と協力して戦い勝利を収めています。

三国志には魯粛以外にも「子敬」が字の人物がおり、それが孟達です。

孟達は劉備に仕えると、字を子敬から子度に変えた話があります。

当時の風習として、下の者は上の人の名を口にする事を避ける風習があり、孟達は劉備に気を遣い「子敬」から「子度」に字を変更したとも考えられています。

劉備にとって劉子敬の存在は大きく、孟達もそれを知り改名したのが実在なのでしょう。

尚、孟達の改名に関しては、劉備に対するおべっかだと考える人もいます。

孟達に関していえば、容姿がよかった話もあり、劉備は魯粛と同様に劉子敬と同じ字を持つ孟達に注目した様にも感じました。

ただし、孟達は劉封と反目し、関羽が殺害されると、魏に寝返った話があります。

劉子敬は最後まで劉備が敬愛する存在だった様に感じますが、孟達は劉備に恨まれる様な存在にもなってしまったと言えるでしょう。

 

 

 

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

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