その他 三国志

金尚(きんしょう)は大尉の要請があるも迎合しなかった忠臣

2022年6月3日

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名前金尚(きんしょう) 字:元休
生没年不明
時代三国志、後漢末期
勢力袁術
コメント仲王朝の大尉就任を拒否

金尚は正史三国志の注釈に登場し、兗州刺史に任命されるも、曹操が既に兗州牧になっていた事により、兗州に入る事が出来なかった人物です。

この時に兗州は朝廷に帰る訳にも行かなかったのか、袁術に身を寄せました。

袁術が後に張炯の説を採用し、皇帝と為った時に金尚を大尉となる様に要請した話があります。

しかし、金尚は袁術の要請を断り逃亡しようとしますが、結局は殺害されてしまいました。

今回は兗州刺史に任命されるも、最後は袁術に殺害された金尚を解説します。

尚、三国志の金姓でいえば金旋や子の金禕が有名ですが、関係は不明です。

金尚の子には金瑋がいた事が分かっています。

金尚と三休

金尚の字は元休であり、正史三国志の注釈・英雄記では「金文休」の名前で登場します。

同じく正史三国志の注釈・典略には金尚の出身地も書かれており、京兆の人だとあります。

金尚は同じく京兆の韋休甫第五文休と共に名が通っており、三人の字から「三休」と呼ばれた話があります。

それを考えると、金尚は地元は優れた人物として評判だったのでしょう。

三休の韋休甫、第五文休に関しての実績は不明です。

ただし、韋休甫は韋端と同一人物説あり、韋休甫と韋端が同一人物であるなら、馬騰と韓遂の仲を仲裁した話があります。

尚、金尚の字は文休ですが、魏の江夏太守となった文聘の養子である文休とは別人なので注意してください。

曹操に追われる

兗州刺史に任命される

金尚ですが、典略に下記の記述が存在します。

※典略の記述

献帝の初期の時代に、兗州刺史となり東方に赴いた。

上記の記述から金尚が兗州刺史に任命された事が分かります。

献帝が即位した初めの頃ですが、董卓に任命されたのか、李傕や郭汜に意向により、金尚が兗州刺史になったのかは不明です。

金尚は兗州刺史となりますが、この頃の兗州は荒れており、兗州牧の劉岱が黄巾賊に殺害され、鮑信や万潜らの意向により曹操が兗州牧を名乗っていました。

金尚が刺史として、兗州に行っても、曹操が兗州の統治者としての位を譲ってくれる状況でも無かったわけです。

曹操との対決

金尚が兗州に辿り着いてからですが、典略では兗州は曹操が支配しており、金尚は仕方がなく袁術を頼ったとする簡略な記述しかありません。

それに対し、袁術が呂布に宛てた手紙の中に、金尚の名前があり、どちらかと言えば、手紙の中の方が詳しいと言えます。

袁術の手紙によると、劉備は袁術を攻撃しますが、呂布が劉備を裏切る様に唆す手紙を送っています。

手紙の中に、下記の文章が存在します。

※英雄記・袁術の手紙(抜粋)

昔、大将の金元休(金尚)が兗州に向かい、封丘に到着したばかりの頃に、曹操に迎撃され敗北を喫し、散り散りとなり逃亡し、壊滅状態になった事がありました。

この時に、将軍(呂布)が兗州(曹操の本拠地)を撃破してくださいました。

私は貴方のお陰で遠近に対し、大きな顔が出来たのです」

上記の手紙は袁術が呂布にお礼を述べているのですが、その中に金元休の名前がある事が分かるはずです。

袁術の手紙によると金尚は封丘まで行きましたが、曹操に攻撃され兗州刺史にも関わらず、兗州に入る事が出来なかった話となっています。

さらに、「壊滅状態」になったとする記述があり、金尚は曹操に対し、かなり酷い負け方をした可能性もある様に思いました。

後に金尚が袁術を頼った所を見ると、兗州刺史に任命されながらも役目を果たす事が出来なかったとも言えるでしょう。

大尉を打診される

袁術の元に身を寄せた金尚ですが、197年に袁術が張炯の説に従い、皇帝に即位し仲王朝の開祖となります。

この時に、袁術は金尚に対し、人を派遣しやんわりと大尉を打診したわけです。

袁術が金尚を大尉に打診した事を考えると、金尚は名士層の人間だった様に思います。

しかし、金尚は大尉になるつもりは、無かった様で典略には下記の記述が存在します。

※典略の記述

金尚は迎合しようとしなかった。

金尚は袁術が仲王朝を開く事に対し、反対の気持があったのでしょう。

袁術の方でも、金尚の気持を察したのか、強制はしなかった話があります。

金尚の最後

金尚は仲王朝の大尉就任を断わりますが、故郷に帰ろうと考える様になります。

袁術からしてみれば金尚は大尉就任を断った人物であり、自分に対して反抗的な人間に見えてしまったのでしょう。

金尚は故郷に還るべく行動を起こしますが、袁術により殺害されてしまいます。

これにより金尚は最後を迎える事になりました。

因みに、金尚は逃亡したから袁術に処刑されたのであり、袁術も金尚が逃亡しなければ命までは取らなかったのでは?とも考えられています。

実際に、徐璆は袁術に抑留されますが、逃げ出す事をしなかった為、袁術も徐璆の命を取ろうとはしませんでした。

後の事を考えれば、金尚は「袁術が滅びるのを待つ」のが正解だったのでしょう。

尚、金尚の遺体は馬日磾の遺体と共に都に送られる事となります。

献帝は金尚が袁術に加担しなかった事を知っており、金尚の烈々たる忠義を称賛した話があります。

献帝はこの時には曹操の元にいましたが、百官に詔勅を下し金尚の霊を祭らせ子の金瑋を郎中に任命しました。

尚、金尚と共に遺体を都に送られた馬日磾に関しては「こうした恩恵に浴さなかった」とあり、献帝に取ってみれば金尚には特別感があったのでしょう。

献帝の金尚に対する評価の高さが分かります。

金尚の能力値

三国志14統率47武力36知力60政治73魅力63

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

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