殷模は正史三国志の諸葛瑾伝に登場する人物です。
殷模は諸葛瑾伝にのみ登場し、その他では登場しません。
正史三国志の諸葛瑾伝の記述によると、殷模は校尉をしていましたが、ある時に孫権の怒りを買い処刑されそうになります。
ここで群臣の多くが殷模を庇いますが、孫権はさらに怒りました。
こうした中で諸葛瑾が殷模を庇い、殷模は罪を許される事になります。
殷模は諸葛瑾のお陰で救われたとも言えるでしょう。
今回は正史三国志に名前が上がる殷模を解説します。
尚、殷模は諸葛瑾に救われましたが、朱治や虞翻なども諸葛瑾により助けられています。
孫権の怒りを買う
殷模は何をしたのかは不明ですが、孫権の怒りを買い処刑されそうになります。
しかし、呉の群臣の多くが「殷模が処刑される程の罪はない」と考えたのか、殷模を庇いました。
孫権は群臣達の意見を聞くと、益々怒り出し議論はヒートアップしていきます。
殷模としてみれば、この時の判断一つで死罪にされてしまうわけで、ヒヤヒヤしていた可能性もあるでしょう。
殷模の罪で孫権と群臣らの間で、終わらない様な総論が巻き起こりますが、この時に諸葛瑾は黙ったままだったと伝わっています。
諸葛瑾のフォロー
孫権は諸葛瑾が黙ったままでいる事に気が付き「子瑜殿(諸葛瑾)は殷模の件に関し、なぜ言葉を噤むのか」と問います。
孫権に聞かれた諸葛瑾は席を降りると、次の様に述べました。
※正史三国志 諸葛瑾伝より
諸葛瑾「私や殷模の故郷は滅び生き物が根絶やしにされる事態となりました。
先祖の墓がある地を棄て老弱を連れて荒野を彷徨いながらも、ご教化を慕ってやってきたのです。
土地も無く流浪の民だった我々を、生活出来る様にしてくださいました。
私は彼等を正しい方向に導く事が出来ず、ご恩返しも出来ておらず、殷模には恩に背く様な真似をさせてしまいました。
殷模は自ら過ちを犯してしまったのです。
私は殷模の過ちを謝罪出来る立場の者ではありませんし、申し上げる言葉もありません」
孫権は諸葛瑾の言葉を聞くと、悲しみの感情が湧いてきてしまい「貴方に免じて殷模を許そう」と述べました。
殷模は諸葛瑾により命を助けられたとも言えるでしょう。
尚、殷模は諸葛瑾により命は助けられましたが、この後にどうなったのかは記録がなく分かっていません。
諸葛瑾の発言から殷模と諸葛瑾は同郷の出身とも考えられ、諸葛瑾は後に荊州の公安に移りますが、殷模も荊州に移った可能性もある様に感じています。
殷模は正史三国志のチョイ役でもあり、どの様な最後を迎えたのかも不明です。
殷模の逸話は諸葛瑾の人柄を表すものとなっています。