名前 | 家僕徒 |
生没年 | 不明 |
時代 | 春秋時代 |
主君 | 晋の恵公 |
年表 | 紀元前645年 韓原の戦い |
家僕徒は史記や春秋左氏伝などに名前が登場する人物です。
家僕徒という名前から「家の下僕」を連想し、身分の賤しい人物に思うかも知れません。
しかし、史記の晋世家に「大夫」の家僕徒という言葉があり、家僕徒は晋の大臣だった事が分かます。
家僕徒は紀元前645年の韓原の戦いでは、車右を務めました。
ただし、韓原の戦いでは晋の恵公が捕虜となっており、家僕徒が活躍出来たとは言えないでしょう。
今回は春秋時代・晋の大臣である家僕徒を解説します。
晋の恵公の車右となる
紀元前645年に晋と秦の間で、韓原の戦いがありますが、この戦いで晋の恵公の御者に歩揚がなり、家僕徒が車右となります。
家僕徒が晋の恵公の戦車の御者となった理由は、開戦前に晋の恵公と慶鄭の間で意見の食い違いがありました。
晋の恵公の車右と御者を占うと両方で「慶鄭」と出ますが、晋の恵公は慶鄭の事を嫌っており、御者に歩揚がなり、車右に家僕徒とします。
家僕徒が車右になった経緯に関しては、占いよりも晋の恵公の気分を優先した結果だったわけです。
韓原の戦いが始まりますが、晋の恵公の戦車が泥土に嵌ってしまった話があります。
つまり、家僕徒が車右となった晋の恵公の戦車が、危機に陥ってしまった事を指します。
ここで晋の恵公は慶鄭に助けを求めますが、慶鄭は応じず戦場を去る事になります。
史記では晋の恵公は虢射と梁由靡を車右と御者にした話があり、史記の記述を信じるのであれば、晋の恵公は歩揚、家僕徒の戦車から乗り換えた事になります。
ただし、春秋左氏伝では虢射と梁由靡は韓簡の戦車に乗り、秦の穆公を追い詰めており、差異が生じています。
それでも、韓原の戦いで晋の恵公が捕虜となったのは同じであり、韓原の戦いは秦の勝利を幕を閉じました。
家僕徒の進言
晋の恵公は捕虜となりますが、穆姫の口添えになり秦の穆公から帰国を許されました。
晋の恵公は慶鄭がまだ晋にいる事を知ると、家僕徒を派遣し「お前は罪があるのに、なぜ国に残っているのだ」と言わせた話があります。
慶鄭は既に罪に服するつもりであり、晋の恵公の前に出頭しました。
この時に、梁由靡は法に基づき慶鄭の処刑を進言しますが、蛾析は許す様に述べています。
家僕徒は次の様に晋の恵公に進言しました。
家僕徒「国の君主になる者は個人的な恨みを消す事ができるものです。
臣下の慶鄭は逃亡しておらず、自ら刑に服するつもりでいます。
これは美徳でもあり、処刑するよりも賢明な判断となるでしょう」
家僕徒は慶鄭の助命嘆願を願い、例え助からないにしても処刑ではなく、自刃とする扱いがよいと進言した事になります。
この辺りは、家僕徒の同僚想いの部分が出ている様に感じました。
しかし、晋の恵公に家僕徒の言葉は通らず、晋の恵公は司馬説に命じ慶鄭を処刑しています。
この時に、家僕徒がどの様に思ったのかは不明です。
尚、これが家僕徒の最後の記述であり、この後にどうなったのかは分かっていません。