その他 三国志

郭常はまともな人だが放蕩息子がいる

2022年7月20日

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名前郭常(かくじょう)
登場三國志演義
コメント三国演義に登場する架空の人物

郭常は三国志演義に登場する架空の人物だと考えられています。

三國志演義では郭常と関羽のやり取りがありますが、正史三国志を見ると郭常なる人物は登場しません。

郭常は関羽を慕い善良な者として描かれていますが、郭常の子(名前は不明)は放蕩息子であり、関羽の赤兎馬を盗もうとした話もあります。

郭常は赤兎馬を盗むのに失敗すると、臥牛山の山賊である裴元紹に赤兎馬を奪う様に勧めました。

しかし、裴元紹は周倉の影響もあり関羽を慕っており、関羽本人だと分かると郭常の子を引き出しています。

本当であれば郭常の子は殺害されていましたが、関羽は郭常の事を想い郭常の子を見逃せています。

今回は三国志演義に登場する架空のキャラですが、郭常の解説をします。

郭常の家

関羽は関羽千里行で五関を突破しますが、最後は夏侯惇との一騎打ちとなります。

夏侯惇と関羽の一騎打ちは曹操の意向を受けた張遼により、場が収められ夏侯惇らは引き上げる事になります。

この後に関羽は孫乾甘夫人、糜夫人らと共に劉備の元に向かいますが、途中で雨が降ったりもし、宿を探しました。

関羽が一晩泊めて欲しいと願ったのが、郭常の屋敷だったわけです。

郭常は老人でしたが、関羽に会うと次の様に述べています。

郭常「私は姓は郭で名は常と申す者です。

我が家は代々に渡りここにおり、将軍(関羽)の御高名は聞いておりました。

今日はお目に掛かる事が出来て、これほど幸せな事はありませぬ」

郭常は関羽の一行を暖かく迎えたわけです。

郭常は関羽や孫乾、甘夫人、糜夫人らを持て成しました。

放蕩息子

郭常は関羽らと過ごすわけですが、日が暮れて来ると一人の若者が数人を引き連れて座敷にやってきました。

この若者が郭常の子であり「若者」と記載がある事から、郭常が老齢になってから出来た子なのでしょう。

郭常は子に挨拶を促し、関羽が郭常の子に「何処に行っていたのか?」と聞けば郭常の子は答えず、郭常が「猟に行っていたのでございます」と答えました。

郭常の子は直ぐに座敷から出て行ってしまい、郭常は次の様に言います。

郭常「私は代々に渡り農業と学問を大事にしてきました。

子も一人しかおりませぬ。

しかし、その子が生業を行おうともせず、猟ばかりしておるのは家の不孝でもございます」

この時の郭常は涙を流して言いました。

関羽は郭常を励まそうと考えたのか、次の様に述べます。

関羽「今は乱世の時代でござる。武芸に優れていれば功名を打ち立てる事も出来ます。

不幸とは限りますまい」

関羽は猟を好んでいる事から、武芸も出来ると考えたのでしょう。

しかし、郭常は自分の子が武芸を習う気もなく、遊んでいるだけの放蕩息子で、ロクな事をしないと述べます。

関羽は郭常の言葉を聞くと、溜息をつく事しか出来なかったとあります。

赤兎馬が盗まれそうになる

郭常の屋敷に泊まった関羽や孫乾ですが、寝ようとした時に、馬小屋の方から叫び声が聞こえたわけです。

関羽は孫乾と共に厩に行くと、郭常の子がわめいて倒れていました。

厩では郭常の子の従者や見回りの人達の間で、乱闘が起きていたわけです。

話を聞くと郭常の子は赤兎馬を盗もうと考えましたが、赤兎馬は暴れ馬であり郭常を蹴り飛ばした事が分かりました。

関羽は赤兎馬を盗もうとした事を怒り、郭常の子を討とうとしますが、ここで郭常がやってきて、次の様に述べます。

郭常「我が子がとんでもない事をしてしまい、本来であれば処罰されて当然の身でござる。

それでも、この子を老婆が可愛がっており、許してやっては貰えませぬか」

関羽は郭常の願いを聞き入れ、郭常の子を許しました。

翌朝になると郭常は老婆と共に次の様に述べています。

郭常「私らの子が将軍の御威光を汚す様な事をしてしまい申し訳なく思います。

将軍の情けには感謝の言葉もありません」

関羽は郭常の子に説教をしようと考え、本人を呼びましたが、郭常の子は「夜明け前にならず者を引き連れて、何処かへ行ってしまった」と述べました。

関羽はここに留まり続けるわけにもいかず、劉備の夫人を護衛し孫乾と先に進みます。

臥牛山の裴元紹

関羽が三十里ほど前に進むと、百人余りの者が姿を現しました。

戦闘の二人だけが馬に乗り一人は郭常の子であり、もう一人は黄色の頭巾を被っていたわけです。

黄色の頭巾の男が臥牛山の裴元紹で、過去には張角の部下だった人物でした。

郭常の子は臥牛山の山賊の力を借りて、関羽から赤兎馬を奪おうと考えていたわけです。

しかし、裴元紹は相手が関羽だと知ると、馬を降りて郭常の子の襟を掴み関羽に差し出しました。

裴元紹と同じく臥牛山の周倉が関羽を尊敬しており、裴元紹も関羽に目通りしたいと願っていたからです。

郭常の子は目の前に関羽がおり、頼みの臥牛山の山賊たちも関羽に味方し、絶体絶命の状態となります。

郭常の子は関羽に命乞いをしました。

この状態だと関羽に自分の命の決定権があると判断した為でしょう。

関羽は郭常に恩があった事から、郭常の子を許しています。

郭常の子は頭を抱えて、そそくさとその場を去りました。

郭常親子の話はこれで終わりであり、この後に関羽は周倉と会う事になります。

郭常がこの後にどうなったのか?や郭常の子が更生したのかは不明です。

最後の態度を見る限りでは、更生とは程遠い人に思えてなりません。

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

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