名前 | 何曼(かまん) |
生没年 | 不明 |
時代 | 後漢末期、三国志 |
所属 | 黄巾賊 |
何曼は正史三国志の武帝紀に名前が見られる人物であり、黄巾賊の一員です。
何曼は汝南・潁川黄巾賊の一人として、劉辟、黄邵、何儀らと共に、数万の兵を擁した話もあります。
汝南・潁川黄巾賊四天王とも呼べる劉辟、黄邵、何儀、何曼の中では、最も存在感が薄いとも言えます。
劉辟、黄邵は斬られた記録もあり、何儀は曹操に降伏しましたが、何曼に関しては最後の記載が無く、どの様になったのかは不明です。
三國志演義での何曼は截天夜叉の異名を持つ人物として、登場しますが曹洪に斬られました。
尚、截天夜叉の異名は三国志演義のみに見られ、正史三国志に何曼が截天夜叉を名乗った記録はありません。
正史三国志の何曼
何曼に関する正史三国志の記述は下記のみとなります。
※正史三国志 武帝紀より
汝南・潁川黄巾賊・何儀、劉辟、黄邵、何曼らが、それぞれ数万の軍勢を率いて、始めは袁術に味方した。
しかし、後に孫堅に味方した。曹操は軍を集めて、彼らを撃破した。
上記の記述から何曼は黄巾賊の一員であり数万兵を率いていた首領だった事が分かります。
何曼らは最初は袁術に味方しましたが、十分な兵糧の援助をしてくれなかったのか、孫堅を頼ったのでしょう。
しかし、孫堅も劉表との襄陽の戦いで戦死しており、孫堅の助けも得られない状態で、曹操と戦った事になるはずです。
正史三国志には「劉辟、黄邵らは斬られ、何儀は降伏した」と書かれていますが、何曼がどうなったのかは正確には分かりません。
ただし、「劉辟、黄邵らを斬った」とする複数形の記述になっている事から、何曼も含まれる可能性もあります。
何曼も含まれると言うのであれば、西暦196年に斬首され亡くなった事になります。
この後に、何曼が登場せず、生き残ったのかも亡くなったのかも正確には不明です。
三國志演義の何曼
三國志演義だと曹操が汝南・潁川の平定に取り掛かった時に、黄邵の部下として何曼が登場します。
何儀と黄邵は曹操が攻めて来ると羊山に集結する事になります。
曹操軍の中で典韋が前に出ると、何儀は副大将を繰り出しますが、典韋に一突きでやられました。
翌日になると何を思ったのか、黄邵が軍を前に進め何曼が前に出ます。
この時に何曼の描写があり身の丈九尺五寸、手に一本の鉄棒を持ち、次の様に言い放ちます。
何曼「我こそは截天夜叉の何曼なり。俺の相手になる者はいないか」
何曼が曹操軍を挑発すると、曹洪が前に出て何曼と曹洪の一騎打ちが始まります。
何曼と曹洪は五十合ほど打ち合いますが、決着はつかず、曹洪はわざと負けた振りをして逃げ出しました。
何曼は曹洪を追撃しますが、曹洪は途中で反転し、何曼に攻撃を加えます。
この時に曹洪は何曼のももを斬り落とす事に成功し、何曼はその場で息が絶えたあります。
三國志演義では何曼は曹洪と最初は互角の一騎打ちを繰り広げますが、結局は討たれてしまいました。
三國志演義では一騎打ちになると一撃で斬られる人物も多い中で、曹洪が相手だったとはいえ奮闘した方だと感じています。
因みに、何曼が斬られた事で黄邵の軍は勢いを失くし、黄邵も李典に捕らえられました。
残った何儀は逃亡しますが、途中で出くわした許褚に捕らえられ、何儀を追走していた典韋と許褚の一騎打ちが行われる事になります。
最終的には捕虜となった何儀と黄邵も処刑され、何曼が待つあの世に向かう事になったわけです。
話の内容を見る限りでは、三國志演義の何曼は曹洪の引き立て役の様な存在になっています。