韓簡は韓の始祖である韓万の孫にあたる人物で、韓簡の父親は韓賕伯です。
韓簡の子に韓輿がおり戦国七雄の韓に繋がっていきます。
韓簡は春秋時代の人であり韓簡の時代は、晋の公族はまだ力を持っており、韓簡も晋の一大臣に過ぎませんでした。
韓簡は韓原の戦いでは、秦の穆公をあと一歩で捕える所まで追い詰める事に成功しています。
韓簡を見ると道理に通じている人にも見えますが、武芸に関しても優れている様に感じました。
韓原の戦いでは晋と秦を比較して大敗を予感した話が伝わっています。
韓原の戦い
秦軍を偵察
晋の恵公と秦の穆公の間で韓原の戦いが勃発しました。
この時に、晋の恵公は韓簡に命じて秦の陣営を偵察させています。
韓簡は晋の本営に戻って来ると、晋の恵公に次の様に述べました。
韓簡「秦軍は兵の数では我らに劣っていますが、士気が高く強兵は我が軍の倍以上もいます」
晋の恵公は韓簡の言葉を聞くと不思議に思い、理由を問うと韓簡は次の様に答えました。
韓簡「我が君は晋から出奔し秦の助けを受けています。晋君として即位する時も秦の手助けにより即位する事が出来ました。
即位してから晋が飢饉に陥った時には、秦に食料を援助して貰っています。
三度も我らは秦に恩があるにも関わらず、一回も報いてはいません。
それ故に、秦は晋に攻め寄せて来たのです。
この様な怒りに燃える秦軍に対して、我等は迎撃しようとしております。
我等が受けた恩を返さないから、秦は憤っているのです。
秦軍の闘士は我らの倍くらいではすみません」
韓簡は晋の恵公は不徳な人物であり、恩がある秦に対し背信行為を行っている事を指摘したわけです。
韓簡の言っている事は道理に通じていると言えます。
しかし、韓原の戦いは既に始まってしまっており、晋の恵公は次の様に述べました。
晋の恵公「貴方の言っている通りなのかも知れない。しかし、ここで迎撃せねば秦は我等を侮る事になるであろう。
匹夫であっても軽く見られるのは避けるべきであり、一つの国となれば軽視される事は避けなければならない」
晋の恵公は戦わなければならない理由を説明し、秦軍との決戦に挑む事になりました。
晋軍の大敗を悟る
韓原の戦いが開戦されますが、韓簡の戦車の御者に梁由靡、車右には虢射が選ばれます。
梁由靡と虢射は晋の献公の時代に、里克と共に采桑の戦いで翟の軍を破った戦巧者です。
それを考えると、韓簡の戦車は強力だったと言えます。
韓簡は戦いが始まる前に、秦軍に向かい次の様に言い放ちました。
韓簡「我が君は秦の穆公から受けた恩を忘れた事がない。
しかし、我が君は不才であり兵を集める事が出来ても、解散させる事が出来ない。
秦軍が帰国してくれるのは我らの願いでもある。
もし秦軍が帰国しないのであれば、我等は踏みとどまって戦うだけだ」
韓簡はこの言葉からも分かる様に秦軍と戦いたくは無かったのでしょう。
戦ったとしても勝利の可能性は低いと考えていたのかも知れません。
韓簡の返答に対し秦の穆公は「晋の恵公が招いた戦いである」と主張し決戦を挑む事になります。
この辺りは春秋左氏伝と国語で差異があり、公孫枝が受けごたえをしたとする話もあります。
決戦を覚悟した秦軍に対し、韓簡は次の様に述べました。
韓簡「戦死せずに捕虜になる事が出来れば幸いなくらいだ」
韓簡は韓原の戦いでの敗北を悟りました。
秦の穆公を追い詰める
韓簡は晋軍が大敗すると悟ったわけですが、戦いを捨てる様な事はしませんでした。
長期戦になれば敗れると判断したのか、果敢に秦軍に攻め込む事になります。
韓簡の戦車の御者である梁由靡と車右の虢射の奮戦もあったのでしょう。
梁由靡や虢射は情に流されない部分が多く見受けられ、秦軍を押しに押しまくります。
韓簡の戦車は秦軍を蹴散らし、秦の穆公を捕える直前まで行きました。
しかし、晋の恵公と仲違いをしていた慶鄭が現れ「晋の恵公を助けに行け」と述べた事で、韓簡の戦車は晋の恵公の元に向かいます。
ここが勝負の分かれ目であり、秦の穆公を韓簡らが追い詰めていた時に、晋の恵公も秦軍に追い詰められていました。
韓簡の戦車は晋の恵公の危機に間に合わずに、結局は晋の恵公が捕虜となり韓原の戦いは決着となります。
韓簡が慶鄭の意見を無視し、秦の穆公を追撃していたら、逆の展開になったともいえるでしょう。
韓原の戦いでは晋軍のまとまりの無さが目立ちます。
占いのせいではなく人災
過去に晋の献公が秦の穆公に穆姫を嫁がせるかで、史蘇に占いをさせた事がありました。
史蘇は穆姫を秦に嫁がせるのは不吉とする占い結果を述べ、嫁がせれば晋は秦に敗れると述べました。
しかし、晋の献公は穆姫を秦の穆公に嫁がせたわけです。
史蘇の話を晋の恵公は知っており、帰国後に次の様に述べました。
晋の恵公「晋の献公が史蘇の占いに従っていれば、この様な結果にならなかったであろう」
晋の恵公は韓原の戦いで敗れた原因は、晋の献公が史蘇の発言を無視し、穆姫を秦の穆公に嫁がせた事が原因だとしたわけです。
晋の恵公の発言を聞いた韓簡は次の様に述べました。
韓簡「晋の献公が徳を失ったのは占いの結果ではない。
史蘇の占いの結果に従っても結果は同じだったはずだ。
詩経に『民の不幸は天が与えたものではない。和睦や憎悪の気持は人によって作られる』」
韓簡は晋の恵公が秦軍の捕虜となったのは、占いのせいではなく人災だったと述べた事になります。
実際に、晋の献公が驪姫を手に入れても、道理に適った行いをすれば晋は乱れなかったはずであり、同様に晋の恵公も道理に則って行動すれば、捕虜にはならなかったはずです。
それらを考えると韓簡は、道理に明るい人物だったと言えるでしょう。