名前 | 韓範(かんはん) |
生没年 | 不明 |
勢力 | 袁尚→曹操 |
画像 | ©コーエーテクモゲームス |
韓範は正史三国志の武帝紀と徐晃伝に登場する人物です。
韓範は易陽の県令をしていた話しがありますが、出身地などは分かっていません。
袁紹が亡くなると袁譚と袁尚の争いとなりますが、曹操が介入しました。
曹操が鄴を包囲し邯鄲を抜くと、韓範は降伏を決断しています。
しかし、韓範は気が変わり城を守りますが、徐晃の説得で再び降伏しました。
韓範は降伏した事で関内侯となります。
今回は正史三国志に登場する韓範を解説します。
尚、韓範は三国志演義には登場しません。
易陽を守る
袁紹が亡くなると後継者の座を袁譚と袁尚で争いました。
この時に韓範は袁尚派として易陽の守備を任されていたのでしょう。
曹操は鄴を攻撃しますが、鄴を任された一人である蘇由が曹操に寝返り審配と戦いました。
審配は蘇由を破りますが、邯鄲の沮鵠が曹操の軍に敗れる事態となります。
袁尚が不利だと悟ったのか易陽の韓範は降伏を願い出ました。
しかし、韓範の気が変わったのか、最初から曹操を欺くつもりだったのか、城を守り抵抗する構えを見せます。
曹操は徐晃を易陽に派遣しました。
関内侯
徐晃は韓範が籠る易陽に到着すると攻撃を行わず、矢文を城内に打ち込みました。
徐晃の手紙を読んだ韓範は、降伏しなかった事を後悔しました。
韓範は徐晃の説得もあり降伏しています。
徐晃は韓範を降伏させると、曹操に対しては次の様に述べています。
※正史三国志 徐晃伝より
徐晃「二袁(袁譚・袁尚)をまだ打ち破ったわけではなく、まだ降伏していない城は耳を澄まして情報を集めているのです。
今の状態で易陽を滅ぼしてしまっては、明日には全ての城が我等を相手に必死に防戦する事になります。
そうなれば、河北で激戦が繰り返され安定する事はないでしょう。
公(曹操)は易陽の降伏を受け入れ、それを諸城に示してください。
さすれば、多くの城が我等に靡く事になります」
徐晃は韓範の攻撃を受け入れる様に説得し、曹操も賛成しました。
曹操は過去に徐州で虐殺を行い恩徳を見せなかった事で、酷い目に合った事があり、韓範の降伏を受け入れたのでしょう。
正史三国志の武帝紀を見ると「易陽の韓範と渉の長である梁岐が県をあげて降伏し関内侯になった」とあります。
この記述を見る限り曹操は降伏した韓範を関内侯に任命して重用したとみる事が出来ます。
徐晃の言葉にもあった様に、曹操は韓範を厚遇する事で、さらなる降伏を促したかったのでしょう。
ただし、全ての城が降伏したわけではなく、この後に徐晃が毛城の尹楷を攻撃した記述があります。
尚、これ以降に韓範の名は見えず、どの様な最後を迎えたのかも不明です。