
智氏の土地を領有する段階になると段規の進言により、成皋を得ています。
成皋は鄭を滅ぼす為の重要拠点にもなっており、韓康子は韓が興隆する礎を築いたと言えそうです。
史記の韓康子
史記における韓康子の記述は、下記の様になっています。
※史記 韓世家より
韓荘子が亡くなると、韓康子が立った。
韓康子は趙襄子、魏桓子と共に智伯を破り、その土地を分割した。
韓康子が亡くなると、子の韓武子が立った。
これが史記における韓康子の記述であり、内容に関しては韓、魏、趙が協力して智伯を破った話が掲載されており、魏桓子の記述と殆ど同じだと言えます。
さらに言えば、諸侯を凌いだとあり、既にこの時点で生き残っていた諸侯である魯や鄭、衛などよりも三晋の方が国力があったと読み取る事が出来るはずです。
戦国策の韓康子
土地の割譲を了承
戦国策の方が韓康子の事が詳しく書かれています。
ただし、戦国策では晋陽の戦いの話が中心です。
智伯は范氏と中行氏を滅ぼした頃には、六卿の中でも最大勢力となっており、晋の正卿となり実力で韓、魏、趙を圧倒していました。
智伯は韓に使者を派遣し、土地を割譲する様に要求してきますが、韓康子は気分を害したのか、土地の割譲を断わろうとしています。
しかし、謀臣の段規に諫められ、智伯に1万戸の邑を割譲しました。
魏桓子も趙葭の進言により、1万戸の邑を割譲しますが、趙襄子は拒み晋陽の戦いが勃発する事になります。
張孟談の工作
智伯は城を水攻めにし、晋陽の城を孤立させ有利に戦いを進めました。
しかし、韓康子と魏桓子は、智伯が趙を滅ぼせば、次は自らが滅ぼされる可能性があり、晋陽が落城寸前になっても喜べなかったわけです。
ここにおいて、趙襄子は張孟談を派遣してきました。
趙襄子は韓康子と魏桓子に「唇亡びて歯寒し」の諺を例に出し、寝返る様に伝えました。
ここで、韓康子と魏桓子は次の様に述べた話があります。
※戦国策 趙策より
韓康子・魏桓子「智伯が趙を滅ぼせば自らに禍が及ぶ事は分かっている。
智伯の人柄は粗暴であり、人に親しむ気持ちがない。
それ故に、謀が成就せずに、露見すれば、我らに禍が及ぶだろう」
韓康子らは、趙に寝返る前に、智伯に悟られるのを怖れたと言えるでしょう。
しかし、張孟談は「自分が聞いただけで露見する事はない」と答えました。
この後に、韓康子と魏桓子は趙に寝返る事を約束しています。
寝返り
韓康子と魏桓子が寝返りを約束した前後で、絺疵が韓健子と魏桓子を疑った話があります。
絺疵は韓康子と魏桓子の様相がおかしいから寝返るに違いないと、智伯に進言しました。
智伯は翌日になると韓康子らを呼び寄せ、馬鹿正直にも絺疵の言葉を告げています。
ここで、韓康子と魏桓子は次の様に述べました。
※戦国策 趙策より
韓健子・魏桓子「趙を滅ぼした暁には、土地を三分割すると約束しているのです。
既に、城(晋陽)は落城寸前にあります。
韓や魏の家が如何に愚かと言えども、目の前の巨利を捨て去り、信義に背くような行動はしません。
今の状況で寝返るのは危うく、実行しても成就するはずもない事は、情勢をみれば分かるはずです。
絺疵は趙の為の謀を行っており、主君(智伯)に我らを疑わせ、趙を攻める手を緩めさせようとしています。
貴方様は讒言を行った家臣を信じ、我らとの交わりと断とうとしておられます。
貴方様の事を考えれば、遺憾に思わずにはいられません」
韓康子と魏桓子は「絺疵が我らを讒言しただけ」と述べた事になります。
この後に、智伯の陣幕を出ると絺疵がおり、韓康子らは急いで走り去った話があります。
絺疵は智伯が進言を聴き入れる気がないと知ると、斉への使者となり晋陽の陣から離脱しました。
智過も韓康子らの異変に気付き、戦場から離脱しています。
この後に、韓康子と魏桓子は趙に寝返り、智伯は討ち取られ、晋陽の戦いは幕を下ろす事になります。
晋陽の戦いが終わって
晋陽の戦いが終わると、智伯の土地を三分割する事になりますが、この時に段規が「成皋を領有する様に」と進言しました。
段規は成皋を取れば、鄭を取る事が出来ると述べ、韓の将来の為の策として成皋を取る様に進言したわけです。
実際に韓康子は成皋を領有しており、韓の哀侯の時代である紀元前375年に鄭を滅ぼす事になりました。
紀元前452年に、晋では出公が出奔し亡くなっており、趙、魏、韓が勝手に智伯の土地を分割してしまった事への憤りもあったのでしょう。
晋では哀公が擁立されますが、正卿の趙襄子が中心となり、韓康子や魏桓子と話し合いの場を持ち、即位させたと考えられます。
韓康子の最後
韓康子は紀元前425年に亡くなったとされており、晋陽の戦いから20年以上も生きた事になります。
同年に趙襄子も亡くなっており、晋陽の戦いを共に戦った魏桓子は既に亡くなっており、魏では文侯の時代となっていました。
趙では趙桓子と趙の献侯の間で後継者問題が勃発し、晋の正卿は魏の文侯となったわけです。
三晋は魏の文侯の時代となってしまいますが、仮に韓康子が生きていれば、韓康子が晋の正卿となっていた事でしょう。
魏の文侯は正卿の座を利用し勢力を拡大させていますが、韓康子がもう少し長生きしていれば、時代は違った方向に進んだのかも知れません。
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