名前 | 河越貞重 |
生没年 | 1272年ー1333年 |
時代 | 鎌倉時代 |
一族 | 父:河越経重 兄:宗重 子:高重 孫:直重 |
年表 | 1331年 赤坂城の戦い |
1333年 千早城の戦い | |
コメント | 近江国番場で最後を迎えた |
河越貞重は鎌倉時代の人物であり、六波羅探題の北条仲時らと運命を共にした人物です。
楠木正成が赤坂城で挙兵すると、鎌倉幕府の一員として赤坂城を攻撃しました。
後に楠木正成が千早城で挙兵すると、河越貞重も幕府軍として千早城の戦いに参加しています。
しかし、足利尊氏が寝返り六波羅探題が陥落すると、北条仲時や光厳天皇らと共に鎌倉を目指しますが、途中で落ち武者狩りにより近江国番場で自害して果てています。
河越貞重の出自
河越貞重は河越経重の子として生まれ、兄には河越宗重がいました。
河越宗重の子が河越経重とする説もありますが、常楽記にの記述により、現在では河越宗重の弟が河越貞重だと考えられています。
河越貞重の「貞」の文字は得宗・北条貞時からの偏諱によるものでしょう。
近畿への出陣
元弘元年(1331年)に後醍醐天皇は幕府打倒に舵を切りました。
後醍醐天皇に呼応した楠木正成が赤坂城に籠城する事になります。
鎌倉幕府の首脳部では楠木正成を鎮圧する為に、大軍を派遣しますが、この中に河越貞重もいたわけです。
後醍醐天皇も笠置山で挙兵しますが、宗良親王らと呆気なく捕らえられました。
後醍醐天皇は隠岐に流される事になります。
幕府軍は楠木正成が籠る赤坂城を陥落させ、河越貞重も関東に凱旋する事になります。
河越貞重は関東に戻ると相模国早川尻で後醍醐天皇の近臣である平成輔を殺害しました。
河越貞重の最後
1333年に護良親王が吉野で挙兵し、楠木正成が千早城で挙兵する事になります。
鎌倉幕府では再び大軍を近畿に向ける事になり、この中には河越貞重もいました。
しかし、楠木正成の前に苦戦を強いられ名越高家が射殺され、後醍醐天皇も隠岐を脱出し伯耆の名和長年に迎え入れられています。
こうした中で足利尊氏が鎌倉幕府を裏切り後醍醐天皇に味方し、六波羅探題を攻め落としてしまいました。
六波羅探題の北条仲時、北条時益らは光厳天皇や花園上皇らと共に鎌倉を目指しますが、この中には河越貞重もいたわけです。
一行は鎌倉を目指しますが、近江で落ち武者狩りに遭遇し、番場で北条仲時らと共に河越貞重も自害しました。
享年は62歳だったと伝わっています。
尚、河越貞重は世を去りますが、子の河越高重は新田義貞の鎌倉攻撃に参戦しており、河越氏は続く事になります。