三国志 後漢 魏(三国志)

邢貞は使者となるも叱責される

2023年7月2日

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宮下悠史

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名前邢貞(けいてい)
生没年不明
勢力曹操曹丕
時代三国志、後漢末期
年表221年 呉への使者となる

邢貞は正史三国志に登場し、太常の官位にあり孫権への使者となった人物でもあります。

残念ながら正史三国志には邢貞を主役とした伝は立てられておらず、文帝紀や呉主伝などに名前が見られます。

邢貞は曹丕の使者となり、大将軍及び呉王に孫権を封じましたが、態度が傲慢であり張昭に叱責されたりもしています。

さらに、魏の功臣である程昱とも争い、程昱は職を辞する事になりました。

邢貞の出身地やどの様にして魏で高官となったのかは不明ですが、確実に存在した人物だと言えるでしょう。

今回は曹操や曹丕に仕えた邢貞を解説します。

呉への使者

孫権の呉王就任

孫権呂蒙の策に従い荊州を守る関羽を討ちますが、蜀の劉備とは断絶しました。

劉備は関羽の敵討ちと称して、呉を攻撃しようとしますが、孫権は魏の曹丕に臣従したわけです。

孫権は関羽を破った時に捕虜とした于禁も魏に還す事を約束しました。

曹丕は呉の孫権を大将軍及び呉王に封じ、邢貞が使者となり孫権への使者となります。

邢貞は呉に到着すると、魏の朝廷からの策名として、次の様な書を孫権に渡しました。

※正史三国志 呉主伝より

聖王の法によれば、徳を帰順にして爵位が決まり、功績で俸禄が決まると聞いている。

功績の大きい者は禄が多く、徳の盛んな者は厚く遇されるのである。

西周の周公旦は幼い周の成王を補佐し国家に勲功があり、太公望呂尚は軍師として大きな手柄があり、それぞれを魯と斉に封じ、功績に応じた待遇をしたと聞いている。

漢の高祖劉邦は肥沃な土地を分割し8つの姓の者をその地の王とした。

これが古の麗しき故事であり、後の世の主が取るべき態度である。

朕は不徳ではあるが、時勢により新しい王朝を建て万国に君臨し国家を統治する身分となった。

過去の優れた統治を引き継ぎ夜も寝ずに政治を行うべきかと腐心している。

お前は天より忠義にして公明なる資質を授かっており、王者を補佐するべく指名を受けて深く成り行きを見定め国家の先を見通し遠く使者を派遣した。

其方は新王朝の威徳を慕い臣下になりたいと述べて来た。

加えて南方の特産物や囚われていた武将まで釈放している。

お前には真心と慎み深さがあり誠実さが行動に現れており、信は石や金属よりも固い。

正義の心は山河を覆いつくす程である。

汝を呉王に封じ使持節・太常・高平侯の邢貞に命じ、汝に璽綬と策書と黄金の虎符を授ける。

我が命に応え東夏(中国の東部)の地を治め正す様にせよ。

元の驃騎将軍、南昌侯の印綬と策符は返納する様に。

邢貞はさらに、九錫を孫権に授ける様に告げました。

孫権は呉王の位を受けた事で、邢貞の任務は達成されたわけです。

邢貞と呉の群臣

邢貞は呉に行った時に、礼を失せる行為があったと伝わっています。

孫権は魏の曹丕に対し、臣従を誓った事もあり、邢貞の態度に尊大さがあったのかも知れません。

しかし、呉の文官筆頭である張昭に一喝されると、慌てて車を降りた話しがあります。

張昭との一件を見ると、邢貞は魏を後ろ盾にして空威張りしていた様にも感じました。

しかし、邢貞は徐盛が孫権が魏に屈する姿を見て涙を流した話を同行の者から聞いた話があります。

邢貞は徐盛の涙を知り「呉はいつまでも他人の臣下にいる事はないだろう」と述べ、呉の群臣を認める様な発言をしました。

邢貞も最初は呉を舐めていた部分もあったようですが、魏に帰還する時には、呉に対する見方を大きく変えていた事が分かります。

程昱の免職

正史三国志の程昱伝に、下記の記述があります。

※正史三国志 程昱伝より

魏国がが建国された後で、程昱は中尉の邢貞と威儀を争い免官となった。

上記の記述から程昱と邢貞の間で何らかの、いざこざがあった事が分かります。

程昱は曹操を補佐した軍師でもあり、頭脳は明晰ですが、性格が剛情であり他人と上手くやっていけない部分もあったわけです。

曹操は程昱を可愛がっていましたが、邢貞との間で揉め事が起きてしまったのでしょう。

この時の程昱は既に引退宣言をした後だと思われ、邢貞と争った事で朝廷に出仕しなくなったのかも知れません。

程昱が免官になった事を考えると、魏では邢貞の方に分があると考えた可能性もあるはずです。

程昱と争った時の邢貞は中尉でしたが、呉への使者となった時は太常となっており出世した事が分かります。

正史三国志の邢貞の記述は程昱と争った事と呉への使者になった事しか記録がなく、邢貞がどの様な最後を迎えたのかも不明だと言えます。

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