菊池武士は菊池氏の第14代の当主であり、兄の菊池武重が亡くなると菊池氏の惣領となります。
菊池武重には兄弟が多くいたわけですが、既に菊池武敏や菊池武吉などが亡くなっており、菊池武士が当主になったのでしょう。
ただし、菊池武士が当主の時代は極めて短かった様で、短期間で当主の座を降り兄の菊池武光に譲りました。
菊池武士が菊池武光の能力を高く評価し、認めていたならば極めて有能な人という事になるはずです。
中国の春秋戦国時代の管仲と鮑叔の様な関係にもなるでしょう。
尚、菊池武士は「きくちぶし」と呼んでしまいそうですが、実際には「きくちたけひと」と読みます。
菊池武士が当主になる
菊池武士は菊池武重が亡くなると当主となります。
菊池武士が兄の菊池武光よりも先に当主となったのは、菊池武重と母親が一緒だったのではないかとも考えられています。
母親の身分が高かった事から、菊池武士が当主になったのかも知れません。
菊池武重が突然死でいきなり菊池氏の惣領になった可能性もあるはずです。
ただし、別説として菊池武士と菊池武光の母親が同じとする説もあり、本当の所は分からない所でもあります。
菊池武敏の没年が1341年頃だとされており、この頃に菊池武士が当主になった事だけは間違いないのでしょう。
天性愚昧
菊池武士が菊池氏の当主をやっていた時期は極めて短いと考えられています。
菊池武士は当主の座を降りて出家する事になります。
この時の譲状によると「自らを天性愚昧とし、器用の仁に当主を譲る」と書かれていました。
自らを「天性愚昧」と本心で言ったのかは不明ですが、当主を降りた事だけは間違いないのでしょう。
菊池武士に関しては「文人」だったとも「能力不足」だったなど色々と言われていますが、実際には分からない事の方が多いです。
尚、菊池武士を菊池武敏が後見人となり支えていましたが、菊池氏は衰退し菊池武光により菊池武士が追放されたとする説もあります。
他にも、菊池市のHPでは菊池氏が合志幸隆に北宮館を奪われ、これを奪還した菊池武光に主君の座を譲ったとするあります。
この説でも菊池武光が隅府菊池城に入り当主となっており、どの説も菊池武士が当主の座を降り、兄の菊池武光が当主になっているのは同じです。
菊池氏に求められたリーダー像
菊池武重が亡くなり菊池武士が当主になった時代ですが、室町幕府に味方する北朝の勢力が強くなっていた時期でもありました。
菊池氏の南に位置する合志氏の勢いが強く、菊池氏にとっても危機を感じていた事でしょう。
こういう時代であれば強いリーダーが求められ、菊池武士は自ら菊池武光に当主の座を譲ろうとしたとも考えられないでしょうか。
菊池武士が自らの能力の低さを自覚し、兄の菊池武光に当主の座を譲り出家したのであれば、立派な人だと言えるでしょう。
尚、菊池武光は懐良親王を迎え入れて九州南朝の全盛期を築く事になります。