名前 | 菊池武光 |
生没年 | 1319-1373 |
時代 | 南北朝時代 |
一族 | 父:菊池武時 兄弟:頼隆、武重、武茂、武澄、隆舜、武吉、武義 |
武光、武尚、武士、武隆、武敏、武豊、乙阿迦丸 | |
子:武政、良政 | |
年表 | 1359年 筑後川の戦い |
コメント | 九州南北朝最強の武将 |
菊池武光は九州南朝の主力として活躍した人物です。
後醍醐天皇の皇子である懐良親王を擁立しました。
九州での南朝は不利な状況でしたが、室町幕府内で観能の擾乱が勃発すると勢力拡大に繋げています。
菊池武光は南朝に鞍替えした少弐頼尚を救い一色道猷を破りました。
少弐頼尚が北朝に復帰すると、筑後川の戦いが勃発しますが、菊池武光は懐良親王と共に出陣し勝利しています。
九州南朝は大宰府も占拠し全盛期を築き上げますが、この頃から菊池武光の状況が分かりにくくなります。
菊池武光は今川了俊が下向して来ると形勢が不利となり、こうした時期に世を去りました。
尚、菊池武光の動画も作成してあり、記事の最下部から視聴できるようになっています。
菊池武光の誕生
菊池武光は元徳元年(1329年)頃に、菊池武時の子として誕生しました。
1329年という年は、後醍醐天皇の皇子で菊池武光とも深く関わる懐良親王と同い年だったとも考えられています。
菊池武光の生まれは菊池郡ではなく、肥後南部の豊田荘であり、最初は豊田十郎を称していました。
阿蘇氏の有力氏族で南北朝随一の戦屋と呼ばれる阿蘇惟澄の本拠地である甲佐社が近隣にあり、比較的早い時期から知り合っていた様です。
1343年に阿蘇惟澄は精力的に軍事行動を行っていますが、菊池武光も共に戦った事が分かっています。
菊池武光は阿蘇惟澄と共に北朝の重臣である少弐頼尚の軍とも戦っています。
菊地武光は懐良親王の側近である五条頼元の元にも行っており、阿蘇惟澄と共に惣領になる事を目標としていた話があります。
菊池武光が当主となる
菊池氏では鎌倉時代末期に菊池武時が鎮西探題を襲撃し失敗しましたが、楠木正成の言葉添えがあり、その行動は高く評価され建武の新政で重用されました。
しかし、多々良浜の戦いで菊池武敏が足利尊氏に敗北し、当主の菊池武重が亡くなると低迷する事になります。
菊池氏の当主には菊地武光の弟の菊池武士がなっていましたが、大友氏泰に攻められるなど困難な状況でした。
菊池武士は病弱だったとも伝わっており、当時の菊池氏では強い君主が望まれたのか、菊池武士は引退し乙阿迦丸が当主になりました。
乙阿迦丸は一般的には菊池武光と同一人物とされていますが、花押の形が違うなどの問題もあり、別人説も根強くあります。
ただし、紆余曲折があったとしても、最終的に菊池武光が菊池氏の当主になった事だけは間違いないでしょう。
懐良親王と菊池武光
後醍醐天皇の晩年である1338年に懐良親王は征西大将軍に任命され、九州を目指しました。
数年かけて薩摩に入り島津氏との合戦も行っています。
当初の予定では懐良親王は肥後の阿蘇氏の元に入る予定でした。
阿蘇氏では庶子家筆頭の阿蘇惟澄は懐良親王を支持しますが、惣領の阿蘇惟時は曖昧な態度を繰り返す事になります。
懐良親王の陣営でも阿蘇氏に対して不安があり、菊池武光を頼る事にしたのでしょう。
菊池武光は懐良親王を擁立する事になります。
筑前進出の難しさ
懐良親王は菊池武光の勢力圏に入りましたが、阿蘇家文書の内容から「直ぐに筑前に向かう」との事も書かれていました。
これらを考慮すると、懐良親王は肥後の菊池氏の元には一時的におり、直ぐに筑前に向かい大宰府を奪還するつもりだったのではないかともされています。
室町幕府でも懐良親王と菊池武光の結びつきを警戒しており、鎮西管領の一色道猷と一色直氏の親子が肥後に軍を向けたりもしています。
こうした事情もあり、菊池武光や懐良親王が九州の中心地である大宰府を占拠するには、10年以上の月日を擁する事になります。
九州南朝の主力
正平四年(1349年)に阿蘇家文書の征西将軍宮令旨写によると「北伐の為に肥後や筑後の軍勢を招集しているが「南郡」に関しては『肥後守武光』を使者として遣わす」と記録されています。
これが菊池武光が肥後守と呼ばれる初見の記録となっています。
南郡は緑川よりも南の地を指し宇土、益城、八代などを含み、阿蘇惟澄の本拠地がある益城郡も含まれていました。
既にこの頃には、懐良親王は阿蘇氏よりも菊池氏の方を遥かに頼りにしていたのでしょう。
やはり、阿蘇氏惣領の阿蘇惟時の煮え切らない態度は、南朝の九州征西府にとっては大きな不信感があったとみる事も出来ます。
ただし、菊池本城(深川城)が合志幸隆に奪われる事件が起きますが、菊池武光は阿蘇惟澄に救援依頼をしており、城を奪還させた話があります。
この時の菊池軍と阿蘇惟澄は奮戦し、昼夜戦い続けた話しもあります。
阿蘇氏の庶子家の阿蘇惟澄は南朝を支持し続ける事になります。
菊池武光は求心力を高め惣領としての地位を向上させ、九州南朝の主力として活躍しました。
菊池武光と観応の擾乱
1349年に室町幕府内では足利直義と高師直の対立により、観応の擾乱が勃発する事になります。
高師直の御所巻により足利直義は失脚し、長門探題の足利直冬は九州に下向しました。
足利直冬は急速に勢力を伸ばし、少弐頼尚までもが足利直冬に与する事態となります。
これにより直冬派(少弐頼尚)と鎮西管領の一色道猷の戦いとなります。
足利直冬や少弐頼尚は、最初のうちは懐良親王と菊池武光に対し協調路線をしめしました。
しかし、1351年になると足利直冬の軍勢と南朝の軍の間で戦線が開かれる事となります。
南朝は筑後への進出を目指し、この頃から菊池武光の史料が増加しています。
菊池武光は配下の武士からの軍忠状に署判を行った事が分かっています。
軍忠状の内容から菊池武光が合戦で軍事指揮を執っており、九州各地の武士たちを指揮する立場になったわけです。
この頃の菊池武光は肥後国内だけではなく、九州各地の武士たちを率いる身分となっていました。
九州を代表する武士
菊池武光の活躍は戦場だけに留まらず、政治でも実績を残す事になります。
「菊池武光書状写」によると、幕府方の田原貞広に対し「一色範氏殿の処遇については、吉野朝廷にまで名が響いている者なので注進し許容していただく」としました。
観応の擾乱で足利直義は兄の尊氏に敗れていますが、直義派の足利直冬は勢力を弱めて九州から離脱する事になります。
この後に足利直冬、少弐頼尚、阿蘇惟時、島津伊久が南朝に帰参していますが、菊池武光と関りがあった事が分かっています。
足利直冬は幕府に帰参する事も出来ずに、南朝の武将となり、阿蘇惟時や島津伊久は菊池氏の勢力拡大により、曖昧な態度が取りにくくなり南朝を支持したのでしょう。
観応の擾乱の頃の菊池武光は、政治交渉にも力を発揮し九州を代表する武士になっていたとも言えそうです。
菊池武光の大宰府救援はあったのか
先にも述べた様に、足利直義が亡くなると養子の足利直冬は勢力を後退させ、九州から落ち延びて行きました。
直冬派の少弐頼尚は取り残される形となり、九州で戦う事になります。
この時に京都の方では足利直冬が南朝の武将となった事で、少弐頼尚も南朝の武将となり、菊池武光が救援に向かったとの噂が流れています。
京都では一色氏の軍勢を菊池武光と少弐頼尚が協力して討ち破ったとの風聞が聞こえていたわけです。
ただし、一色氏側の軍忠状が残っており、少弐頼尚の軍勢は敗れ浦城に後退し、一色直氏の軍勢が浦城を攻撃したとあります。
これを考えると、菊池武光が直ぐに大宰府に向かったとするのは、誤報だとも考えられています。
実際には少弐頼尚は浦城で一色直氏の攻勢を凌いでいたのでしょう。
それでも、一色氏と菊池氏の戦いは始まっており、菊池武光の兄である菊池武澄が肥前に兵を進め一色範光と交戦状態になった話も残っています。
針摺原の戦い
菊池武光は南朝の武将となった少弐頼尚の救援に動く事になります。
浦城で一色勢の攻撃を受けて苦しい立場となった少弐頼尚ですが、援軍として菊池武光の軍勢が現れました。
大宰府の南で針摺原の戦いが勃発する事になります。
一色道猷率いる幕府軍と菊池武光・少弐頼尚率いる南朝連合が筑前国針摺原で戦ったわけです。
針摺原の戦いで菊池武光は大勝しました。
少弐頼尚は菊池武光の救援が無ければ滅亡した可能性もあり多いに感謝し「子孫七代にいたるまで、菊池の人々に弓を引き矢を放つ事はない」とまで述べ起請文を提出した話があります。
ただし、「子孫七代まで菊池に弓を引かない」とする話は、少弐頼尚と菊池武光は後に対立しており、菊池氏側が少弐頼尚を辱める為の創作だった可能性も指摘されています。
それでも、針摺原の戦いの影響は大きく戦況は南朝優位に大きく傾きました。
北部九州を平定
1355年になると懐良親王や菊池武澄が兵を率いて肥前に進出し国府を占拠しました。
さらに、九州各地で戦果を挙げ千葉胤泰、宇都宮頼綱、大友氏時らを南朝に帰順させています。
南朝の軍は北部九州の一帯を平定しました。
懐良親王と菊池武光が中心となった南朝の攻勢により、一色道猷や一色直氏は歯が立たず九州から落ち延びていく事となります。
一色直氏は長門の厚東氏を頼り北部九州の奪還を企てますが、菊池氏の軍に敗れ失敗に終わりました。
北部九州を平定し、九州の大きな敵は日向の畠山直顕だけとなったわけです。
尚、この頃から菊池武光の発行する文書が軍事だけではなく、行政に関するものも増えていく事になります。
菊池武光は肥後守護と肥後守に就任しており、守護としての所領の引き渡しなども行っています。
国司としての役目も行っており、藤崎八幡宮の造営に関わっている事が分かっています。
日向豊後遠征
北部九州を制圧した菊池武光の九州での残りの敵は日向の畠山直顕だけとなりました。
太平記によると菊池武光は兵を進めますが、大友氏時が裏切り退路を遮断しようとしたとあります。
しかし、菊池武光率いる南朝の軍は動揺せず、畠山直顕の攻撃を継続しました。
畠山直顕は島津氏久とも対立しており、菊池武光の日向進出は泣きっ面に蜂とも言うべき事態だったはずです。
畠山直顕は穆佐城を放棄し畠山重隆のいる三俣城に籠城しますが、菊池武光は昼夜問わず攻撃を加え落城させました。
畠山氏の勢力を駆逐した菊池武光は肥後に戻り、豊後の大友氏討伐の為に懐良親王と共に出陣する事になります。
ただし、菊池武光の日向征伐を裏付ける資料が大慈寺によるものしかありません。
こうした事情から菊池武光の日向遠征は本当にあったのかと疑問視する声もあります。
当時の畠山直顕は島津氏との抗争も熾烈を極めており、この時期に没落した事は間違いないでしょう。
筑後川の戦い
1359年に大友氏に続き少弐氏も南朝を離脱し、室町幕府に帰順しました。
これにより筑後川の戦いが勃発する事になります。
筑後川の戦いは川中島の戦い、関ヶ原の戦いと共に日本三大合戦に位置づけられています。
九州南朝の総大将である懐良親王も出陣しており、大規模な合戦となります。
この戦いで菊池武光は少弐頼尚の「七代後まで弓を引かない」とする起請文を掲げ挑発したとも伝わっています。
筑後川の戦いでは菊地武政が奮戦し少弐直資が戦死するなどありましたが、戦いは激戦であり菊池武明が戦死するなどもしています。
懐良親王も負傷する事態となりましたが、最終的に九州征西府が筑後川の戦いで勝利する事になります。
筑後川の戦いが終わると、菊池武光が血糊のついた刀を小川で洗うと、川の水が真っ赤に染まったとする話があります。
これが大刀洗川となります。
現在では大刀洗公園として整備されており、菊池武光の銅像もあります。
尚、筑後川の戦いで幕府勢力が大敗北を喫したのに驚いたのが、足利義詮であり後光厳天皇に綸旨の発行を願った話があります。
大宰府を占拠
筑後川の戦いに勝利した菊池武光ですが、島津氏が北朝に鞍替えした事で島津軍と交戦しました。
少弐氏では少弐冬資を中心に、抵抗を繰り広げる事になります。
少弐冬資は本拠地の大宰府を出発し、青柳に陣を構え、少弐頼国は細峰城に入りました。
菊池武光は大宰府に向けて兵を発し、菊池武顕の活躍により飯盛城が陥落するなどの話もあります。
青柳では少弐冬資の援軍として大友氏時の軍勢がやってきますが、菊池武光は撃破しました。
ついに、九州南朝の軍が大宰府に入り、懐良親王はこの地に征西府を設置しています。
九州南朝の軍は古からの九州の中心地である大宰府を占拠したわけです。
九州南朝の悲願が実現された瞬間でもあります。
尚、少弐頼尚は豊後の大友氏の元に行き出家し、それ以後は活動の形跡が殆ど見られる、京都で亡くなっています。
長者原の戦い
室町幕府では九州での勢力挽回の為に、斯波氏経を派遣しました。
斯波氏経は大友氏時と共に九州を統治すべく活動を開始し、豊前の大半を幕府方とする事に成功しています。
菊池武光は万寿寺に陣を置き、大友氏の本拠地である高崎城を伺いました。
菊池軍は肥後に撤退すると見せかけて戦いを挑む事になります。
菊池武光と幕府連合である斯波氏経、大友氏時、少弐冬資らの軍と戦いになりました。
これが長者原の戦いです。
長者原の戦いでは資料による食い違いがありながらも、菊池軍が勝利した事だけは同じです。
斯波氏経を九州から追い出す
少弐冬資は宗像大宮司の宗像氏俊と共に香椎や大隈まで進出しますが、菊池武光は撃破しました。
菊池武光は手を緩めず豊後に向かい斯波氏経を追い詰めて行きます。
阿蘇惟村に宛てた手紙の中でも大友氏時が戦いを渋る様子が描かれており、菊池武光により斯波氏経はかなり苦しい立場となっていました。
斯波氏綱は中国地方の重鎮である大内弘世に援軍を要請しました。
大内氏の軍が九州に渡海すると、菊池武光の軍は敗れますが、菊池氏が帰還すると再び形勢が逆転しています。
斯波氏経の九州経営は失敗に終わり、九州を去り探題職も解任されました。
菊池武光と今川了俊
斯波氏経を九州から駆逐した菊池武光ですが、1366年に豊前国の岩隈城、伊田城、香春城の少弐冬資の軍を攻めた記録があります。
菊池武光は肥前、肥後の守護として寺社を造営に関する政治的な文書が残っています。
しかし、この頃から菊池武光の史料が極端に少なくなり、何をやっていたのか分かりにくくなります。
専門家の中には「何らかの理由により菊池武光は引退したのではないか」と考える人もいる状態です。
ただし、幕府軍からは敵軍の総帥が菊池武光であったと認識されていました。
こうした中で今川了俊が九州に九州探題に任命されています。
今川了俊は手始めに息子の今川義範を豊後高崎城に入れ、菊池武政と戦わせています。
こうした動きに対し菊池武光も動き伊倉宮を奉じて合流し、豊後高崎城を攻撃しました。
さらに、今川了俊の弟である今川仲秋が肥前国上松浦呼子津に上陸する事になります。
今川了俊も豊前門司から九州への上陸を果たしました。
菊池武光は高崎城を落す事が出来ず、大宰府への撤退を決めています。
今川仲秋が烏帽子嶽に陣を置くと菊池武政の間で激戦が繰り返されますが、菊池武政は敗れ去りました。
今川了俊も少弐冬資や大内弘世の協力を得て筑前に進撃し、大良倉。鷹見嶽城を攻略しています。
菊池武光も筑前方面に出撃しますが、劣勢は続きました。
今川了俊は大宰府の北にある佐野山に陣を布き大宰府に攻撃を仕掛ける事になります。
筑後から今川仲秋が到着すると今川了俊は大宰府に総攻撃を仕掛け陥落させました。
これにより南朝の九州征西府は大宰府を失う事になったわけです。
こうした中で菊池武光は懐良親王を奉じて高良山に逃れたと考えられています。
菊池武光の最後
文中二年(1373年)になると、菊池武政の書状があり、悲観的な文言で語られています。
この時期に、菊池武光が病に倒れたか没したのではないかとされています。
菊池総系図でも11月16日に菊池武光が享年45歳で亡くなったと伝わっています。
今川了俊との戦いが継続されている中で没しており、戦闘での負傷が原因で亡くなったとも考えられています。
尚、菊池武光が亡くなると菊池武政が後継者になりますが、翌年に亡くなっており賀々丸(菊池武朝)が後継者となりますが、僅か12歳でしかありませんでした。
懐良親王も引退し後村上天皇の子である良成親王に、征西将軍府の長を譲っています。
良成親王と菊池武朝は九州南朝最後の戦いに挑む事になります。
九州将軍
菊池武光は最初から最後まで南朝として戦いました。
一つの説として少弐氏への対抗意識が原因だともされています。
しかし、菊池武光は少弐氏が南朝に入れる様に仲介を行ったり、一色道猷に攻められ足利直冬も九州を去り窮地に陥った少弐頼尚に援軍として現れ救いの手を差し伸べたりもしています。
こうした事情から、菊池武光が南朝に忠義を尽くしたのは、少弐氏が原因ではないとする意見もあります。
菊池武光は適材適所に戦場に向かわせ、勝利すれば一気に叩き勢力を広げるなど戦略面でも優れていました。
菊池武光がいなければ、九州征西府が九州を席巻するなど思いもよらなかったはずです。
菊池系図には菊池武光を「九州静謐の武功」及び「九州将軍」だったと記録しました。
しかし、人生の終わりに近づいた菊池武光が何を思ってみていたのかは、残されている資料がなく不明です。
菊池武光の動画
菊池武光のゆっくり解説動画となっています。
この記事及び動画は戎光祥出版の南北朝武将列伝南朝編及び、歴史研究716号をベースに作成してあります。