鎌倉時代

菊池武時は「忠厚もっとも第一」と評価されていた

2025年1月8日

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宮下悠史

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名前菊池武時
生没年1292年ー1333年
時代鎌倉時代
一族父:菊池隆盛 子:頼隆、武重、武茂、武澄、隆舜、武吉、武義
武光、武尚、武士、武隆、武敏、武豊、乙阿迦丸
コメント博多の探題館を襲撃するも失敗

菊池武時は肥後の菊池氏の12代当主となります。

菊池武時の時代は鎌倉幕府の最末期であり、菊池氏は少弐氏や大友氏と手を組み鎮西探題の急襲を画策しました。

しかし、鎮西探題の長官を務める北条英時に悟られたと感じたのか、博多で乱を起こしています。

菊池武時の乱は少弐氏や大友氏の協力を得る事が出来ず失敗に終わりました。

鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇による建武の新政が行われますが、楠木正成が菊池武時を「忠厚もっとも第一」と評価した事で、建武政権での菊地氏は肥後守に任命されるなど重用されています。

菊池武時の鎮西探題九州は失敗に終わりましたが、決して無駄死にでは無かったと言えるでしょう。

尚、菊池武時は南北朝時代の九州最強の武将とも言える菊池武光の父親でもあります。

鎮西探題転覆計画

1333年に菊池武時は阿蘇惟直と共に鎮西探題を急襲しようとしました。

鎌倉時代の菊池氏は鎌倉幕府により領地を削減されましたが、関係は良好だったとも伝わっており、菊池武時が鎮西探題を滅ぼそうとした理由は不明です。

しかし、当時の鎌倉幕府は御家人の要望に応える事が出来ず、御家人たちに不満が高まっていた事は事実なのでしょう。

後醍醐天皇や護良親王は九州の武士に倒幕を命じており、菊池武時は幕府の政情不安もあり鎮西探題急襲を画策したとも考えられています。

菊池武時は九州の有力守護である大友貞宗や少弐貞経に使者を派遣し、鎮西探題を滅ぼす密約を結んだともされています。

博多への招集

鎮西探題の長官は北条英時でしたが、九州での不穏な動きを察知し博多に御家人を集結させる事になります。

菊池武時も北条英時の要請に応じ博多に向かいますが、遅参した事で着至を認められなかったともされています。

北条英時に着到を認められなかった事で、菊池武時は「鎮西探題を滅ぼす計画が漏れた」と感じたのか挙兵に至りました。

菊池武時が挙兵した別説としては「遅参を北条英時に詰られた」とするものもあります。

菊池武時が鎮西探題に反旗を翻した理由は不明ですが、挙兵し鎮西探題を滅ぼそうとした事は間違いないでしょう。

一つの説として菊池武時は鎌倉幕府が滅びるのを素早く感じ取っており、挙兵したがタイミングが早急すぎて失敗したとする見解もあります。

菊池武時の最後

菊池武時は大友氏や少弐氏にも味方になる様に要請しますが、少弐や大友は時期尚早と考えたのか呼応しませんでした。

大友氏や少弐氏の加勢を期待出来ない状態で、菊池武時は単独で挙兵する事になります。

この時に菊池武時は死を覚悟しており、嫡子の菊池武重を肥後の本拠地・菊池に還らせています。

菊池武時は後事を菊池武重に託し、菊池頼隆や弟の覚勝らと共に探題館を襲撃しました。

死を覚悟した菊池勢の奮戦は凄まじかったとも伝わっていますが、菊池武時と菊池頼隆は犬射馬場で戦死し、さらし首にされたと伝わっています。

弟の覚勝も探題御所内で討ち取られました。

菊池武時は鎮西探題襲撃に失敗し最後を迎えたわけです。

尚、少弐貞経は北条英時に味方したともされており、これが原因で少弐氏と菊池氏の対立の原因になったともされています。

因みに、当時の肥後守護であった規矩高政が菊池氏と阿蘇氏の掃討を命じられますが、菊池武重は阿蘇惟直と共に行方を眩ませました。

福岡市の菊池霊社と菊池神社には、菊池武時の首塚と胴塚があり祀られています。

名前住所電話番号
菊池神社(福岡)福岡県福岡市城南区七隈七丁目10番1号092-871-7075
菊池霊社(菊池武時公 首塚)福岡県福岡市中央区六本松3丁目12−7

菊池武時が亡くなった影響

菊池武時に大友氏や少弐氏が味方しなかった事で、菊池氏と大友氏、少弐氏の間で遺恨を残す形となります。

後に近畿では足利尊氏が朝廷側に寝返り、六波羅探題を滅ぼしてしまいました。

九州にまで六波羅探題陥落の知らせが入ると、少弐氏や大友氏、島津氏は協力して鎮西探題を攻撃し北条英時は最後を迎えています。

後醍醐天皇による建武の新政が始まると、論功行賞が行われますが、楠木正成が菊池武時を高く評価しました。

菊池武朝申状写によると楠木正成は菊池武時を「忠厚もっとも第一」と主張したとあります。

楠木正成の鶴の一声により菊池武時の嫡男・菊池武重は肥後守に任じられました。

これを考えると菊池武時の奮戦は決して無駄では無かったと言えそうです。

ただし、九州の諸将らは「勝手に挙兵して自滅した菊池氏が評価されるのは、けしからん」などの恨みを買ったのではないかとされています。

菊池氏と九州の大友氏・少弐氏との遺恨は多々良浜の戦いにまで影響を及ぼしています。

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