名前 | 吉良貞家 |
生没年 | 不明 |
時代 | 南北朝時代 |
一族 | 父:吉良経家 兄弟:貞経、氏家 子:満家、治家 |
年表 | 1351年 岩切城の戦い、広瀬川の戦い |
コメント | 奥州管領となり奮戦した。 |
吉良貞家は南北朝時代に活躍した人物であり、関東庇番や幕府の引付頭人にもなっています。
中央で活躍した後に、畠山国氏と共に奥州管領に任命され奥州に下向しました。
観応の擾乱が勃発すると畠山高国や国氏と対立しますが、岩切城の戦いで滅ぼし勝者となっています。
奥州管領は一人制になりますが、足利尊氏が独自で奥州の武士と関係を深めた事で、吉良貞家の求心力は弱くなりました。
吉良貞家は北畠顕信に広瀬川の戦いに敗れ、多賀国府も奪われてしまいますが、後に奪還しています。
1353年の途中から記録が無くなっており、この頃に没したと考えられています。
関東庇番の三番頭人
後醍醐天皇による建武の新政が始まると、足利直義は成良親王を奉じて鎌倉府の長官となりました。
この時に、吉良貞家は京都吉良氏の吉良満義と共に関東に行き、関東庇番の三番頭人となっています。
吉良満義は直ぐに京都に戻ってしまいましたが、吉良貞家は関東に残ったと考えられています。
しかし、1335年に中先代の乱が勃発すると、鎌倉府の軍は連戦連敗であり、鎌倉を奪われました。
千葉城を攻撃
足利尊氏は鎌倉を奪還すると、論功行賞を始め独立してしまいました。
後醍醐天皇は足利尊氏を朝敵認定し、新田義貞を対象とする箱根竹ノ下の戦いが勃発する事になります。
この時に、吉良貞家は足利方の武将として参戦し、相馬氏の軍を率いて下総国千葉城を攻撃しました。
さらに、箱根竹ノ下の戦いにも参戦しています。
箱根竹ノ下の戦いは足利軍の勝利となり、新田義貞が東海道を敗走し、足利軍が追撃する事になります。
北畠顕家との戦い
後醍醐天皇は陸奥将軍府の北畠顕家に上洛を命じました。
ここで吉良貞家に与えられた役目は、東海道の制圧と防備を固める事だったはずです。
足利尊氏は東海道の守りを期待し、吉良貞家を配置したのでしょう。
しかし、この時の北畠顕家の軍は凄まじく、いとも簡単に突破され足利尊氏も敗れ九州に落ち延びて行く事になります。
東海地方を転戦
吉良貞家は足利尊氏の九州没落には従わず、東海地方で奮戦する事になります。
吉良貞家は尾張で戦い、三河で軍勢を整えると、信濃から鎌倉に向かった北条氏の残党たちに備える事になります。
北畠顕家は足利尊氏を九州に追い落としますが、この後に奥州に帰りました。
奥州軍は東海道を得て帰還しようとし、これを阻止しようとしたのが、斯波家長や吉良貞家となります。
吉良貞家は斯波家長と協力して、片瀬川で奥州軍を迎え撃ちますが敗れています。
ただし、片瀬川は突破されましたが、奥州軍を下野まで追撃するなどもしました。
足利尊氏は九州で少弐頼尚の助力を得て短期間で復活し、上洛戦争を起こす事になります。
湊川の戦いで楠木正成と新田義貞を破った足利尊氏は、後醍醐天皇と和睦し建武式目を制定し室町幕府を開きました。
各地を転戦
足利尊氏が京都に入ると、吉良貞家も上洛しました。
吉良貞家は足利尊氏の側で文書の管理などを行っています。
ただし、吉良貞家は文官的な仕事ばかりをしていたわけではなく、四条隆資を討つべく細川顕氏と畿内を転戦したりもしています。
北畠顕家が再び上洛戦争を起こすと、斯波家長や吉良満義らの防衛ラインを突破し上洛しました。
この頃に、吉良貞家は山城の八幡の守備をしていましたが、前線に駆り出される事になります。
北畠顕家は石津の戦いで高師直に敗れ命を落としました。
但馬、丹波、因幡で奮戦
1338年に吉良貞家は但馬国の南朝征伐の為に出陣しました。
この時の吉良貞家は但馬だけに留まらず、隣国の丹波や因幡でも奮戦しています。
この頃の吉良貞家は戦いは優勢に進めた様ではありますが、弟の吉良氏家が戦死するなど被害も少なくはなかったのでしょう。
吉良貞家は但馬国が安定すると、中央に戻る事になります。
幕府引付方に就任
1340年頃になると、吉良貞家は室町幕府の引付頭人に就任しました。
引付頭人は幕府の不動産訴訟を扱う役職で、足利直義が管轄する部署でもあります。
既に吉良満義も幕府の引付頭人になっており、室町幕府の司法などにも精通する様になっていったのでしょう。
尚、後の吉良貞家の事を考えると、ここでの引付頭人の経験が多いに役立つ事になります。
1344年頃に吉良貞家は、足利尊氏、直義、吉良満義、斯波高経、石橋和義ら足利一門と共に、摂津国勝尾寺鳥居造率に際し馬を奉加した記録があります。
奥州で活動
1345年に奥州総大将の石塔義房が解任されました。
これに伴い畠山国氏と吉良貞家が奥州に下向する事になります。
吉良貞家は足利直義の息のかかった人物として、奥州に下向したともされています。
室町幕府としては奥州管領を二人制にする事で、互いに牽制しあう事も期待したのでしょう。
この時に畠山国氏よりも吉良貞家の方が、多くの発給文書が出されている事が分かっています。
吉良貞家は引付頭人をやっており、司法や行政文書にも詳しく、経験を元に職権活動をしたと考えられています。
畠山国氏は引付頭人になったなどの経験がなく、父親で後見人の畠山高国が奥州に同道していましたが、こちらも伊勢守護を解任されてから数年間何をしていたのかも分からない状態です。
こうしたキャリアの違いから、奥州国人の心を掴んだのは吉良貞家であり、求心力を高めて行ったと考えられています。
岩切城の戦い
室町幕府内では足利直義と高師直の間で観応の擾乱が勃発しました。
吉良貞家は足利直義に与する事となり、畠山国氏は高師直に味方し、奥州管領同士で争う事になります。
足利直義と高師直の戦いは全国的に見ても、足利直義が高師直を圧倒しました。
奥州でも武士たちの心を掴んだのは、吉良貞家であり、岩切城の戦いで畠山高国、国氏親子を自害に追い込んでいます。
畠山高国、国氏の親子を破った事で、吉良貞家は奥州管領を独占する事になります。
一管領となった吉良貞家は、所領安堵や所領宛行を実施しており、岩切城の戦いで功績を挙げた者にも独断で恩賞を与えました。
足利直義も自派閥として活動した吉良貞家を、咎める事が出来なかったのでしょう。
吉良貞家は奥州管領を独占しましたが、権力基盤を持たず直轄軍も欠く様な有様でした。
こうした中で求心力を得るためには、武士たちへの恩賞は非常に重要なものだったわけです。
広瀬川の戦い
中央では足利尊氏と足利直義の対立があり、足利直義は越前に出奔しました。
この時期になると室町幕府でも奥州の武士たちを懐柔する様になります。
(画像:足利尊氏(Wikipedia)
幕府では結城顕朝や結城朝常の所領を安堵した事も分かっています。
足利尊氏は南朝に降伏し、鎌倉に移った足利直義を討つために東進しました。
こうした中で奥州南朝の軍が吉良貞家を攻撃し、広瀬川の戦いが勃発しています。
吉良貞家は広瀬川の戦いで北畠顕信に敗れ、多賀国府は南朝の手に落ちました。
吉良貞家は伊具郡に落ち延び後に稲村まで逃げ延びています。
こうした中で吉良貞家は足利尊氏に鞍替えしたと考えられています。
足利尊氏と吉良貞家
足利尊氏は東征を行いますが、この頃から奥州の武士との結びつきが強くなっていきます。
薩埵山の戦いの戦いで勝利すると、足利尊氏は直義を降伏させ鎌倉に入りました。
足利尊氏は奥州の武士たちに吉良貞家と協力して、北畠顕信を打倒する様には命じていますが、白河結城氏などを将軍直属の者として優遇した話もあります。
奥州の武士たちは足利尊氏の直属の者になろうと考えた者が多く現れ、その分だけ吉良貞家の求心力は失われて行ったと言えるでしょう。
吉良貞家は多賀城を奪還し、田村郡宇津峰城を陥落させ、北畠顕信を駆逐し北奥を覗く大半を支配しましたが、足利尊氏の権威を利用したものでした。
足利尊氏の力を背景にしながれば、吉良貞家は独力で奥州武士を纏めるのも難しくなっていたのでしょう。
吉良貞家は1353年を最後に動向が分からなくなっており、この時に亡くなったと考えられています。
奥州管領は子の吉良満家が継ぎました。
吉良貞家の動画
吉良貞家のゆっくり解説動画となっています。
この記事及び動画は足利一門守護発展史の研究(新装版・吉川弘文館)、南北朝武将列伝北朝編(戎光祥出版)、奥州管領斯波大崎氏 難敵に挑み続けた名族(戎光祥出版)をベースに作成しました。